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危うさとはメタの欠如だと思う。

世の中に対する解像度とか、人を殺すかもしれない感性とか、同じだけのものを持っていても、芸術家になれる人と危うさを纏ってしまい社会性から距離を置かれてしまう人がいる。その違いはなんだろうか。

それは「メタの有無」だと思う。
客観があることで自身の狂気みたいなものどもを飼い慣らし、人としての形を保つ努力ができる。

中身が怪物だろうが、飼い慣らせば社会性は保てる。匿名性を保った上でいろんな人と話してみると、社会には意外と怪物が多いことがわかる。みんな飯を食うために、欲求を満たすために、きちんと怪物性を理解して、適切な形に落とし込んでいる。

表現の世界に狂気を昇華することもできる。しかし、適切な承認を得たいと思ったらやはり野放しは駄目で、狂気に対して必要十分な理性、メタが必要となる。メチャクチャをやって暴れることは表現とは呼ばないと僕は思う。意図もなく酒を飲んで暴れて公道で煙草を吸うことを表現などと呼ぶのは大変な勘違いをしている。と僕は思う。(逆に確固たる意図があれば芸術になりうる可能性もあるが、迷惑をかけるのはあまり素敵ではない(素敵であることを重視するかは各々の世界観に依るだろうが、社会で生きる存在である以上、相応のリスクは理解せねばならない(その覚悟を真っ向からキメた上でやるなら意志と言えるのかもしれない(意志であることの社会的価値とは一体なんだろうか、そもそも芸術そのものの価値と社会的価値は同等と言えるのだろうか、僕にはなにもわからない、何を言っているのかもわからなくなってきた))))

昇華とは人間の理性を前提として為せる営み、そこに必要なのは理性、社会的であると同時に人間、一個人でもあること、両方を同じベクトルとして生の舵を取っていくことが欲求の適切な充足であり、また見ている者にも本能的な安心感を与える。

この安心感、メタであり理性的であるという正しさの威力は絶大で、そこにインストールされている感性がどれだけ反社会的だろうが美しく見えてしまうという効力がある。それ相応の理性を用意できたら、の話ではあるが。

人には承認欲求がある、その解像度が、そこに対する渇望が人一倍強い個体も存在する、自身の素直な感性をどうしても承認されたいのならば、必要なのは手放しの暴れではなくやはりメタなのである。

ただその過程でどうしても人は暴れる。素直さへの探究によって自身の脆い部分に足を踏み込み、社会性との均衡が取れなくなって一時的に解放することもある、その解放すらも賢くやれるのが大人だと言うが、人は一生子ども、そう上手くやれることばかりではないし、人に迷惑もやはりかけてしまう。

それでも自分なりに成長すること、その手放しの狂気を確実に振り返って、たとえば言語化をして自身の狂気を理性に落とし込み、パターン化を行うなど、メタを強化していく材料にしていくことが、賢くはなれずとも、賢さを目指していく姿勢こそが、おそらく人として正しい姿ではなかろうか。と考えている。

で、かなり傲慢な語り口をした自覚がある。まず正しさを僕が定義できるほどの存在ではない。なのでこれ自体は一解釈として捉えてほしいのと、そもそも正しく生きることだって個々人の必要次第である。結局は、正しさも手段でしかなく、自己実現においてどの程度の正しさの引用が必要なのかを見極め、適量を摂取していくことが大事である。

正しいことに越したことはないが、正しさに飲まれることが常に正しいわけではない、ただ正しさを再現できる状態になっておくことは、少なくともメリットしかないと僕は思う。だから学ぶ。人として正しい状態をメタの獲得によって再現できるようにしておくのだ。未来の自分のために。

危うさに惹かれることは少なくない、ただ実際人が惹かれる危うさとは往々にして「バランスの中で時折見え隠れする潜在的な危うさ」ではないだろうか。すなわち表現。バランスとメタは直結していて、そもそものバランスが存在しない野性的な狂気は、純粋な社会性の欠如としか捉えられない。これは殆どの場合、お前にとって大変な損である。狂気を自覚して且つ社会で生きる道を選ぶならば、美しさを目指す、そのためにもがいてもがいてメタを身につけるのだ。圧倒的クソデカとの遭遇と、それに対する思考、言語化、発狂しない程度のギリギリの追い込み。これが人を美しくするのだ。最短を目指すならばストイック、まあ実際は自分のペースでやってこ。

おわり。

もっとおもしろくなりたいです