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人が生きていく上で一番大切なこと-「看護」と「看護師」-

こんにちは。
ちまりです。

先日からお試し投稿をひたすら繰り返している私です。

自分に合う投稿スタイルってどれかな?と模索中。

それに振り回される読者。

ほんとに申し訳ないです。

もう少しだけ、もう少しだけスタイルを築くまで時間をください...

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今日から少しずつ、私がその日に気になった単語をテーマにお話をしてみようと思います。

新しい挑戦。

もしかしたら挫けるかもしれない。

それでも進んでいこうと思います。

私が私の事、私の思うことを話すにはこれが一番ラフにやれるはず。

まず最初のテーマは「看護

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【 看護 】

[名](スル)けが人や病人の手当てや世話をすること。「手厚い看護を受ける」「病人を看護する」「寝ずに看護する」

(デジタル大辞泉より引用)


看護ってなんだろう?

看護師ってなんだろう?

この仕事を始めてから改めて思う瞬間が何度もある

あなたの命を救いたい

そんな難しい話じゃなくていいんです

ただ傍に寄り添ってあげるだけでいい

ただ話を聞いてあげるだけでいい

それだって看護

風邪をひいた旦那にご飯を作った

悩んでる友達の話を聞いた

それだって看護

あなたにもできる、「看護」があります


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看護とは 看護師とは

「看護とは、新鮮な空気、陽光、暖かさ、清潔さ、静かさなどを適切に整え、これらを活かして用いること、また食事内容を適切に選択し適切に与えることーこういったことのすべてを、患者の生命力の消耗を最小にするように整えること、を意味すべきである。」

(F・ナイチンゲール著/湯槇ます・薄井坦子他訳:看護覚え書,P15~P16,現代社,2013年)

看護って、人の病気の治療とかお世話をしてるって思われがちですが、それはどちらかといえば「看護師の役割」であって「看護」ではありません。

看護って看て護るって書くじゃないですか。
つまり、患者が病気になる前と同じくらい元気になるよう寄り添ってる人は、知らず知らずのうちに看護をしているんですよね。

じゃあ看護師っていらないじゃん、という話になるわけですが、そうではないです。
看護師には看護師の専門性があります。

ただ寄り添って話を聞いてるだけでは、どこが悪くて何をしてあげたらいいのかわかりません。
(もちろん、全く分からないとはいいませんが)。
しかし、看護師には、看護師になるために、多くの専門的な知識を身につけています。
そして、観察する視点があります。

例えば、観察方法、観察の視点、観察した事の分析、分析結果から考えられる、対象の人への必要なアプローチを考えられるスペシャリストが看護師です。

そして、私はそんな「看護」が、「看護師」が、時々わからなくなります。

仕事としての看護



看護師の仕事は、ざっくりいえば

・病気など、自分の力だけでは日常の生活ができない人へ支援をする

・医師の診察の補助をする

この2つで成り立っています。
そしてその知識をもって、患者と関わっているのが看護師です。

さらにいえば、看護師の仕事は「観察」という言葉に集約されます。
患者の体の中で何が起きてるのか患者は今何を望んでいるのか、どうあるのが理想なのか。

患者は多くを語りません。
そのため、看護師という、観察のプロが患者の理想の状態を実現できるよう動き回っているのです。

現場での看護

しかし、実際の仕事では、そんなキレイごとだけでまわっていません。

寂しいという理由で、その場に行くまでずっとナースコールを押す人。

自分の状態が飲み込めず、点滴を抜いたり、急に立ち上がって転ぶ人。

認知症が進み、自分が排泄をしたことを忘れ、気持ち悪いという理由でオムツを脱いだり便を触る人。

1人で対応するには無理がある忙しさ。

病院ではこんなこと日常茶飯事です。
患者にはいろいろな人がいるのです。

でもそれはスタッフも同じ。

ナースコールが鳴っているのに無反応、もしくは椅子から立ち上がろうともしない人。

痛みに耐えられず叫ぶ患者に「うるさい」と罵倒する人。

認知症が進んだ患者に「汚い」「なんでそんなことるするん?」など、傷つく発言をする人。

何が嬉しくてお互いで傷つけあうのでしょうか。
特に相手は病気になっているわけで。
弱者を痛めつけるは弱いものいじめではないのか...


そしてそんなスタッフにパワハラを受けて休職したのが私です。

自己犠牲を払ってやるべきではないと分かっていても、私は、いつも同じパフォーマンスで患者と接したい。
そう思って仕事をしていました。

絶対に弱音は吐かない、患者の訴えは絶対聞く。

大丈夫、大丈夫。

まだやれる。

それでも、私1人じゃ解決ができない事も、多くありました。
協力してほしくても、スタッフに不信感。

それなら自分でやろう。

大丈夫、大丈夫、大丈夫...

気づけば限界はきていました。

看護が必要だったのは私のほう

「看護は犠牲行為であってはなりません。人生の最高の喜びのひとつであるべきです。」

(ナイチンゲール著作集・第3巻,P431,現代社,1977)


看護って、自己犠牲の上に成り立つものではないです。
相手を思いやっているようで自分が壊れてしまえば本末転倒。

今の現代社会でも言えますよね。

消防士が、災害現場で人を助けて殉職、コロナ患者を救急搬送していた職員がコロナに感染し死亡...

これらは看護とは違うかもしれませんが、何事も、自己犠牲から得られるものはありません。
自分の体を大事にしてこそ始まります


結局私は、適応障害になりました。
本当は、あの時、一番看護を必要としていたのは私だったのかもしれません。

今からできること

結局看護ってなんだよって話なんですけど、それは最初に書いたように、寄り添ったり、話を聞いてあげることから始められる相手の観察なんですよね。

観察すればおのずと何が必要なのかみえてきます。

でも、相手を観察する前に自分の事が分からなきゃ始まらない。

だから最初に、自分を観察することから始めてみようと思います。


今日から始める看護生活。


あなたも「看護」始めてみませんか?


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