コロナの季節、ダサく生きていく

事の真っ只中にあって、その事について真正面から語るというのは、どんな事柄であれ勇気が要ります。
その事柄を、想像もつかないほど多様な人たちが、無数の視覚から眺めて、本当に様々なことを思っているはずで、
どんな言葉も思いも、誰かの言葉や思いと対立することを免れないはずだからです。

迂闊なことを言うと、その道の人からお叱りを受けるかもしれないし、誤解をばらまいたときの罪は重いでしょう。
そうでなくとも、どこかの誰かが嫌な思いをしたり、許せない気持ちになったりすることはきっとあるはずです。物を書くとは本質的にそういうことです。

それでも、自分がいま一人の一般人として指針にしていることを書いてみます。
いつも通りのスタンスで……つまり、まず第一には自分自身のために、やります。

事実関係に関してまずい内容があれば、容赦なくご指摘ください。

2020年4月3日時点の現状理解

コロナウイルスへの水際対策が失敗に終わったことを踏まえ、いよいよ国内で感染拡大に向けた対策を打っていくしかない、と風向きが変わったのが、2月の終わり頃だったと思います。
このタイミングでまず一度、世の中のムードが一気に変わったのを肌で感じました。
各所でイベント自粛や自粛要請の第一波が起こった時点で、「さながら戦時中だな」と苦々しい気持ちになったのをよく覚えています。
僕の周りの人たちも、楽しみにしていたり準備に励んでいた行事その他諸々を中止せざるを得なくなるなど、たいへん残念な思いをしていました。

それから1ヶ月経った今、世界各国で感染の爆発的拡大が起こり、日本もそれに続くか否かの瀬戸際に立たされるまでになりました。
罹患者は増加しつつあり、著名人も含めて死者も出る事態となっています。

ゆるやかだった「自粛」ムードはみるみる緊張感を増し、つい数週前までは「残念だけど、感染を広げないようにお楽しみは我慢しよう」くらいだった雰囲気が、
「不要な外出は即刻中止し、必要な外出も最小限にとどめよ、誰もが自らをウイルス保持者と思って行動せよ」といった強い空気感に変わりました。
報道からSNSから、あらゆる場所でこの状況に関する情報が飛び交い、全体としては「自粛」のムードが漂うとともに、経済活動の急激な低迷にともなう窮境に苦しむ人も続出しています。

以上が僕の主観にもとづく現状理解です。

現状理解に基づいた現在の行動

ここから述べることはあくまで、僕が事実と認識した限りの根拠に基づいたものとはいえ、きわめて個人的な感想を含みます。

国によっては罹患者の死亡率が1割近くにのぼっていたり、基礎疾患のない若者の死亡例もごくわずかながら出ていたりと、なるほどバカにはできない病気だな、と認識を改めたのは、結構最近のことです。
当初はインフルエンザのちょっとやばいやつ、くらいに考えていたのですが、必ずしもベクトルが同じとは限らないというか、質的に「もっとやばい」かもしれないからには、警戒心を抱かざるを得ませんでした。
罹って発症すると、軽症でもずいぶんきついらしい。シンプルに罹りたくない。家族・恋人・友人その他にうつすのも偲びない。
高齢の祖父母や、基礎疾患のある友人が周りにいたら、迷惑がかからないように距離をおくようにしていただろうなぁと思います。

他方で、万が一罹患して死んでしまったらどうしようとか、同居人(いまコンスタントに至近距離で顔を合わせる機会があるのは同居人1人だけです)を死に追いやってしまったらどうしようといった不安は、いっとき強まった時期もありましたが、今はほぼありません。
僕や同居人が今の年齢で、かつ基礎疾患も一切ないなか、罹患して死に至ってしまうというケースは、交通事故で亡くなるのと同じかそれ以上に稀だと判断したからです。あくまで「いま確認できる情報に基づく確率論」でしかないですが。

ですから、仕事を無理やりリモートに切り替えるなどの措置をとり、一切の外出を控えた生活を送る、という選択をすることは、よほど状況が変わらない限り無いと思います。

実際のところ、僕はいまだに乗車率それなりの電車に乗って通勤し、会社のオフィスで働いています。
あからさまなリスクを免れないそんな自分のスタイルを、なんてダサくてしょぼいんだろう、と恥じる思いは十分すぎるくらいありますが、
それでも、消極的ながらその道を選んでいるのもまた自分自身です。

今の会社での仕事を即刻リモートに切り替えたり(※)、無理やり休職してわずかな貯蓄を食い潰してしのいだり、退職してテレワーク可能な職に移ることが非現実的なのも、うんざりするほど確かなのです。
そんな甲斐性やスキルがあったら、とっくに手を打っています。
それらがないから、そしてそういうものは一朝一夕に手に入るものではないのを知っているから、ひとまずは選べる選択肢の中で一番マシなものを選び取るしかないのです。
ダサすぎるけれど、そうするしかないんです。


現職で即時リモートワークに切り替える可能性については、雇用先に問い合わせてみたもののやはり難しいようです。
社内のリモートワーク向けのネットワークなどのインフラはようやく整いつつあるものの、自社だけで完結できない事柄(非常に多い)については調整が必要だったり、
社員個々の環境や設備に存在するばらつきをどう埋めるかーーつまり、実際に社員一人一人がリモートに切り替えられる状態をどう築くかーーといった問題が山積していて、即リモート化というわけにはなかなかいかないようです。個人情報保護に関わる難問もあるとか。
しょうがないよね、そんな「はいはいリモートリモート」みたいにできるところばっかじゃないんだよね。

個人的な大原則

以下、自分の今の行動を支える原理について、少し細かく詳細に述べてみたいと思います。
こういう緊急時に人の本性は顕れるものだと言いますが、自分を省みてもそれは概ね当てはまるなぁと、今ひしひしと感じています。

大原則(1): 健康でいる

今回に限らず、一般的に言って、健康でいたほうが生き残る蓋然性は高まるはずなので、それを心がけてはいます。
健康な状態を逆手にとって命を奪いにかかってくるタイプの脅威が現れる!といった、SFみたいな事態が将来起こらないとも限りませんが、ほぼナンセンスなので考えません。
むしろ、「健康であることとは生き残る蓋然性が高い状態」である、という逆さまの定義すらできそうな気がします。

とりあえず、通常のインフルエンザシーズンなどと同様、手洗いうがいやアルコール消毒はいつもより気を払ってやっています。
睡眠はしっかりとり、食事も栄養バランスを損なわないよう心がけています。
疲れていると感じたら無理をしない、というのも大事にしているところです。

いずれも普段からやっていることの延長線上ではありますが、心身の状態が良いときの無敵感は誇張抜きで絶大なので、やっぱりこれを抜きにして慌てるのはナンセンスかなという気がします。

大原則(2): 「事実」だけを天秤に載せる

僕はもう、「自らが事実とみなしたものベース」でしか、自分の振る舞いについて判断を下さないと思います。
これまでもそうしてきましたし、これからもそうするはずです。

ニューヨークなどの医療現場で危機的状況を目の当たりにした方たちが、日本でも即時対策に全力を注ぐように訴えておられます。
この主張自体は、本当に深刻な状況を背景として発せられているものに違いないと確信されたがゆえに、僕はかなり心を揺さぶられました。

でも、他の判断材料もろもろとあわせて考えみても、やはりすぐさま仕事すらストップして家に引きこもることはできないな、と思います。
さすがに、いつ体調を崩してもおかしくないようなナメた生活の仕方はすべきでないし、あからさまに市中にウイルスをばらまきかねないリスキーな行動は慎むべきだとは考えるものの、
ウイルスそのものを最危険要因とみなし、あらゆる手段を講じてそれを排除するといった構え方はやはりできません。
(今のところ)まともな生活をしていれば罹って死ぬ可能性のきわめて低いウイルスを確実に避けることと、収入を得て生活を維持することでは、後者のほうが優先順位は高いからです。
両立しがたい事柄のどちらかを選ぶとなれば、自分の生存にとって優先的なほうを取らざるを得ません。

(繰り返すようですが、あくまで僕自身が得た限りの情報からはじき出した、一個人のごく心情的な判断だということは強く申します。)

周りを見渡せば、本当にさまざまな「事実」ーーあちら立てればこちらが立たないようなものも含めてーーが、ゴロゴロ転がっています。
ロサンゼルスでは、ウイルスの流行によって市中から人が払底したことによって犯罪率の減少が見られた一方、DVはじめ家庭内のトラブルが増加したと、最近の報道で目にしました。
社会的なレベルで言えば、引きこもったら引きこもったで弊害が出るのもまた「事実」だということを、端的に示す例だと僕は受け止めています。

国民全員が2週間引きこもれば、ウイルスの蔓延が抑えられるのは自明でしょう。
しかしそれと同時に、そのような事態になれば生活が立ち行かなくなり、命を絶ったり落とさざるを得ない人が現れるのもまた自明です。
事実とは、往々にしてこういうトレードオフをはらんでしまうものであり、
生きていくというのは、こういうトレードオフの狭間を歩き続けることなのだと、僕はいま痛感しています。

上に掲げたような大局的な話でなくとも、事実をトータルに見て検討することは、自分にとって必要な判断を冷静に下すためにきわめて重要だと思います。
感情論や風評に振り回されず、事実を見つめることは、僕にとって捨てがたい原理です。

大原則(3): 他人志向にならない

(2)の裏返しとも言えますが、自分以外の誰かや何かに期待することや、意見や世論にそのまま従うことは、極力しないようにと思っています。

政府がいついつにどんな手を打つだろう、とか、いつ頃にワクチンができるだろう、とか、いずれ電車ももっと空いてくるだろう、とか、そういう他者への期待を行動の指針に織り込むことは差し控えています。
期待を裏切られて落胆したり、実害を被ったとしても、期待した相手が責任をとってくれるわけではないからです。

さまざまな意見を開陳する人たちについても同様です。
○○すべきだ、どうして○○しないのかと強く訴える人たちは、万が一誰かが想定外のひどい結果に至ったとしても、絶対に責任をとってくれません。
たしかに、意見の根拠となっている部分には、参照すべき重要な事柄があるかもしれませんが、発せられる意見そのものに一喜一憂することが有意義だとは、僕はもはや考えられないのです。

歪められた事実が世の中にばらまかれている可能性は、大いにあるでしょう。
でも、脆い期待や、責任をとってはくれない他人の意見に身を委ねることは、自分にとって信じられるものを信じて裏切られたときと同じくらい、いや場合によってはそれ以上に、無残な結果につながりうると思うのです。
関東大震災のとき、風評に身を委ねて朝鮮人を虐殺した人たちの選択は、はたして賢明だったといえるでしょうか?(この風評が国家ぐるみでつくられたものであるという点は、「事実」を見抜くことの難しさを物語ってもいますが)
それに、たとえ同じ結果だったとしても、人任せの結果と自分で引き受けた結果とでは、どちらがより大きい後悔につながるか、僕には明らかに思えます。

見えるものや聞こえるもの、肌で感じ取れるものを手がかりにして、少しでも確信を持てる選択をしていく。
そのようにやっていくしかないように、僕は思っています。

大原則(4): 自分ができることだけをする

(3)と相通ずるところがありますが、他人に期待することがいい結果を生むと僕は考えていません。
ましてや他人を変える、つまり他人を自分の思い通りにするなどということは不可能であり、選択肢に入りようがありません。

(自分を自分の思い通りにできない人間が「人間」として扱われなかった時代があるのを、ご存知の方もいると思います。
そういう人たちは、あるいは奴隷、あるいは狂人と呼ばれて、「人間」の埒外に置かれたわけです。)

ウイルスの感染を顧みず夜の街で遊び回る若者を、自分のことしか考えていないバカだアホだと罵る人をよく見かけます。
気持ちはわからなくもない反面、僕からすると、そういう若者はむしろ自分のことをどうでもいいと見捨てているからこそ、そういう行動をとるのだとも思えます。
命を落とそうが構わないし、巻き添えにして死なせてしまったとき後悔するような大切な人もいない。
見方次第ではウイルスより深刻な孤独で、心が穴だらけの人も、なかにはいるんじゃないでしょうか(そんな人ばかりじゃないかもしれませんが)。

頭ごなしに「考えを変えろ」と迫る人は、その考えを導くに至った、本人でもわからないくらいグチャグチャな過程に思いを馳せようとは、おそらく一ミリも考えていないと思います。
本当に相手を変えたかったら、そういう深いレベルで相手に寄り添わなくてはならないし、
それができたとしても、思う通りに相手が変わる可能性など万に一つでしょう。

他人に勝手に期待して、変わってもらおうと躍起になるのは、きわめて勝つ見込みの薄いやみくもな博打なのです。
そんなものに人生を費やすなら、自分のできることに専心したほうが、不安も後悔も少なくて済むでしょう。
それに、変われ変われと迫るより、自らその姿を示して見せるほうが、他人にはよっぽど大きな影響を与えられると思います。

政治に期待をかけすぎるのも、僕はリスキーだと考えます。
結局のところ政府も、権力とそれに見合う義務をもつというだけで、所詮は市民一人一人の要求をつぶさに聞いていられるわけではない「他者」にすぎないからです。
許しがたい腐敗などに対しては声を上げるのがどれほど大切だとしても、他方でそもそも思い通りに動きはしないものだと覚悟しておくのが、理に適う考え方に思えます。

「権力をもつ他者による管理」を一人一人の市民へと取り戻し、自らを自らでコントロールする権利を行使するとともに、義務を果たし合うべしという理念が、民主主義の根幹にはあります。
しかし、この理念はあくまで理念であり、実体化させるのはあくまで人間です。そこには、必ずしも正しい判断ばかりを下せるわけではない自分と、無数の他人が含まれます。
みんなでどうするか決めよう、の結果が、100%自分にとって納得いくものになるほうがよほど稀であるゆえんです。
まして、代議制が採られている今の民主主義で、求めるものがそのまま政治で実現されることなど、どうして楽観的に期待できるでしょうか。
それがどうしても納得いかないというなら、自ら議員になるなり何なり、内側からーーつまり自分自身が政治の主体となることでーー政治を変えるしかないと思います。

先の見えない状況で苦しむ方に対して、「今あなたが立たされている状況は、あなた自らが招いたものだ」と述べたい、という趣旨では断じてありません。
そして、そういう方々に対して適切な支援がなされるよう声が上げられることも、まったくもって正しいと思います。
ただ、「国がなんとかしてくれる、してくれなきゃおかしい」という期待に立って行動することは、期待が外れたときに自分の状況を悪くする悪手でしかないと思うのです。

最終的には、他人を当てにせず、自分がすべきこと、必要だと思うことを逐一見極めて、粛々とやっていくしかないのだと思います。
ときには判断を180度変えたり、苦しい方に進まなければならないときもあるかもしれません。プライドが傷ついたり、突然の状況の変化に戸惑い不安になることもあるでしょう。
でも、自分自身にとって必要だと感じられる決断であれば、いかなるものであれ、心の赴くまま選び取っていきたいと、僕は強く思います。

おわりに

この騒ぎが始まった当初、僕は戦時中や、あるいはSFでしか知らない全体主義的ディストピアを思わせるような、刺々しく張り詰めた空気感が、本当に嫌で嫌でたまりませんでした。
今だって、そういう傾きのあるものを目にすると、嫌な気持ちになるのは変わりません。

でも、さまざまなリアルを目にするなかで、自分にとって大切なものとそうでないものを切り分けて考えていくうちに、少なくとも僕個人のレベルで言えば、不要なものをどうでもいいと思えるようになりました。
おそらく、そう思えることもまた一つの幸福なのでしょう。
うんざりするような状況ですが、最悪とまではいかないとは確かです。蔓延っているのが致死率100%のウイルスというわけでもなければ、外出した人を即射殺する官憲が闊歩しているわけでもない。
矛盾しているようですが、まだ自分の判断で動けることには、感謝したいなぁと思います。

色々考えた結果として、僕はダサいポーズのまま、この不透明な状況に付き合っていくことに決めました。
でも、そのスタイルを誰かに押しつけたりとか、勧めて回る気はまるでありません。 
誰もが迷いながら悩みながら、あるいは何も考えずに、自分なりにこの状況に対処しておられるはずである以上、
それがその人にとって本当の意味においてベストであれと願う以上のことを、僕はしようと思いません。

それではなんでこんな文章を書いているのかといえば、一つには自分の今後のための記録としてであり、
もう一つには、響き合う誰かに響いたなら、とわずかながら思うから。
本当にこの文章を良いと思ってくれた誰かが、自分のすべきことをするためのエネルギーをこの文章から得てくれたなら、それほど嬉しいことはありません。

今までで一番長くなりました。最後まで読んでくれた方、本当にありがとう。
この状況がいつまで続くやらわかりませんが、めげずに生きていきましょう!

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