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ゆるやかな繋がり

昨日は、自宅から一時間ちょっとのところにある田んぼまで出かけて作業をしてきた。その田んぼでは、昨年から一画をお借りして自然農を実践している。

自然農は、農薬や肥料などを持ち込まず、草や虫を敵とせず、耕さないということを三つの大きな原則としている奈良の川口由一さんのやり方や考え方を基本としている。

社会人一年目の夏から、休日を使って少しずつ始めた三年間を合わせると、夫とともに六年ほど前から実践しているが、こうすれば必ずうまくいくと言うようなものがない自然農のあり方は、難しくもありとても楽しくもある。

肥料を与えれば、それなりに大きくなるだろうということはなんとなく感じている。今お借りしている家の庭に少しの畑があるが、そこは大家さんが先月くらいまで肥料を与えて耕していた畑なので、明らかに野菜の育つスピードや大きさ、虫のつき方が違うことが少しずつわかってきた。

それでも、山の畑や田んぼでは農薬はもちろん、肥料もやらないことは私にとってとても自然なことだ。畑は3年前から山でお借りしていて、それ以前もその畑の持ち主の方がかなりご高齢だったこともあり、ほとんど手入れはされていなかったので、かたい草がたくさん生えている土地だ。

野菜も草のうちなで、バランスが取れた場所やその野菜にとって適切な環境なら必ず育つと思っているし、もしそれがお店に並んでいるほど大きくなかったとしても、もしかしたらそれがその野菜の本来の大きさなのかもしれないとも思う。

肥料をやって育てることは、私にとってはあまり面白いと感じていない。野菜を人間に例えるなら、詰め込み型の教育をされたり、過保護に育てられたりしたように感じる。(流通させる野菜となれば、安定的な供給の問題だったり、色々な問題が絡んでくるとは思うが)また、有機肥料や有機野菜というとイメージはいいが、その有機肥料がどんなものかまで言及されることは少ない。

また、農薬(除草剤や殺虫剤など)を使わないのは、農薬を与えてまで畑をやりたいとは思っていないからだ。農薬による健康被害や環境への負荷は大きいし、農薬をやって畑をやるのなら、私は全部お店で買うと思う。

そして、私が畑を始めたきっかけは、畑仕事がやりたかったと言うことではなくて、自然農のある暮らしが私にとってはとてもしっくりくる感じがしたからだ。そして、副産物のように美味しい野菜が少しずつではあるが食卓に増えてきた。

よく、その年でなんで畑なんてやってるの、珍しいねと言われたことがある。(最近は減ってきてはいるが、始めた頃は20代前半だったためか特に驚かれることが多かった)27年生きてきて、なんとなく居心地が悪いと感じることが多々あった。そんな中出会った畑では、草や生き物たちがいて、自分がどんなふうに畑に関わったかが明らかに現れてくる。厳しくもあるけれど、居心地がいいと感じた。除草剤を使わないので、夏場に草刈りを怠れば、荒地のようになって野菜が草に埋もれ、風通しも悪く日の光も当たらないので育つことが出来なくなる。種を蒔かなければ野菜は芽を出さないし、こぼれ種だって気付いて周りの草を刈ってやらなければいずれ他の草の影で消えてしまう。草は全部刈ってしまえばいいんだよとか言う正攻法もない。だから、大変とも言えるけど、誰かの責任にすることができない分、畑は自分の写し鏡のようになっているのだと思う。

なんとなくこれまで感じていた居心地の悪さは、何か問題が起こった時に、心の中で人のせいにしている自分だったり、そこからくる存在意義を感じられないことだったりしたのかもしれない。

手を加えすぎず、でも完全な放置でもなく、適度な距離感で関わり続けることが、私にとっては心地よくなっていると感じている。

それは、畑と自分だけではなく、自分と周りの人との距離感にも言えることなのかもしれない。過度に関わり、依存しすぎるでもなく、全く無関心でもない。ゆるやかで、でもどこか繋がっている感覚を感じられるような繋がりを私は必要としているのかもしれない。その一つが畑や田んぼなんだと思う。

そして、同じように自然農を実践している人たちとの出会いや繋がりは、私にとってとても大きくて大切なものになっている。自然農を始めたきっかけや、続けている理由はきっと人それぞれに違うのだと思う。でも、畑をやっている時の同じ心地よさを感じている人同士、自分が本当に大切にしたいものを大切にしているというような 何か通じるものがあるように思う。








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