切なく、そして甘い。ご飯の固さの記憶
驚いた。
長年怪我なんてしたことない母が左足を骨折した。
知らせを受けた次の日に飛んで帰った私は、『今は痛くないのよ』と笑いながらこうなって折れたのよ、と詳細を大声で話す母を見て、もう彼女は若くはないんだと思った。でもそれは老いに絶望したわけではない。また一層、大事にしなくてはという温かな気持ちが素直に沸いたからだった。母本人も、そして私を含む家族も、母の元気さを過信していたのだ。
そこからしばらく実家に滞在することが多くなった。不幸中の幸いか、私は空港の国際線の方で働いているため、コロナ禍で出勤が少ない。出勤のときだけ社宅に戻り、あとは実家との往復ができた。普段の帰省の時には作らない料理もせっせと作った。
本当は母の目の前で料理を作るのは苦手だった。昔からとても厳しかった母は、小さい頃から私が料理をするのを見ながら鋭い目の光と共に『もっと頭を使いなさい』と低く言った。あの声がどうにも思い出される。今は彼女もだいぶ丸くなったが、あの時の記憶は消えなかった。
でももう母は、私が目の前で料理をしても指摘なんてしなくなっていた。それどころか、いちいち感動している。ただしその感動は、私が料理を作ること自体にではない。普通はそっちにするのだと思うのだが、それに対しては全くだった。彼女は違うことにひたすら感動していた。
何に感動したか。それは、私の作る味噌汁の具が母が普段作るものと同じだったり、炊くご飯の固さが同じなことだった。
『ご飯の固さ、私が作るのと一緒だねえ。ちょっと水少なめで固めが美味しいよね。』
そういって母はニコニコした。私はそれを穏やかに見つめながら、あぁ、そういうものかぁ、と思った。繋がってきたこと、受け継がれてきたこと、自分の味の継承。そういうのってやっぱり嬉しいもんなんだ。作ってよかったなぁなんて。ぼんやりとまあるいご飯の風景の中で考えていた。
◇
驚いた。
いや、まだ驚き続けている。
あれから数日たった今日。さっきまで私は食卓にいた。母と父と、兄夫婦もいた。今日は父親が車を買った日だ。父は事情があって大好きな車の運転を禁止されていたのだが、やっと今年解禁されすぐに買った。大喜びで家族で5人でドライブに出かけ、帰ってきてシャンパンで祝杯をあげた。
なのに、なんで私はこんな真っ暗なところに居るんだっけ...
酒のまわりがやけに早いと思った。半分しか飲んでないのに顔が真っ赤だぞと兄に笑われる。席を立ったとき、確かに自分の手が異常に赤かった。耳の奥が波打つ。用を足して手を洗う瞬間、耳から全ての音が消えていった..
ドガンっ!
『ちぃちゃーん!!大丈夫?!どうしたー!!』
驚いた。
気付いたら、トイレを出たところの床で母に抱きかかえられていた。最後の爆発みたいな音は、私自身が倒れて頭を床にぶつけたものだったらしい。
久しぶりに強く母に抱きかかえられる暖かくて柔らかい感触。私を呼ぶ声が少し震えている。だんだんと周りが見えて、家族全員が集まっていた。ゆっくり頷くと、『あ、気がついた!もうわかる?』と母が私をまた強くかかえ直した。
とそこで視界に入ったのは母の折れた左足。ギブスは取れたものの、まだ補助器具をつけてうまく曲げれない足。それをしっかり曲げて、私を抱きかかえている。
ごめん!!足が!!
そう言って私は飛び起きた。『ああ、足なら大丈夫!あなたは脳貧血かな?立てそう?』そう言って母がゆっくり手を解いた。
早く立たなきゃ。と思い壁をつたいながらも、手はもう母に抱きかかえられた温もりの名残りを手繰り寄せている。頭を打ったからだろうか、軽い走馬灯のように記憶が駆けていく。ゆっくり歩いてソファーに寝転び、布団をかけられながらも、さっき母が大声で私を呼んだ震えた声が記憶を呼び戻す。
子供を立派に育てなくちゃと思うあまり、何事にも厳しすぎた母に対して10代できっちりと反抗期がきた。バリバリの戦闘型の反抗期で、お母さんのことなんて信用できないと全身で表現していたあの日。母もふてくされて寝室の扉を破壊するぐらいの音で閉じたあの日。その数年後から、母は事あるごとに『自分は良い母親じゃなかった』と繰り返すようになった。
そんなことはないと言っても、切なく後悔するような言葉が続いた。
『愛情をうまく表現できなかったし、渡せてなかった。その自覚があったから、ご飯は必ず手抜きしないようにしていたの。なるべく丁寧に作って、栄養の勉強も欠かさなかった。それが一番愛情を表現できるものだったから』
あのときの過去の言葉が、私の料理を食べてニコニコと笑っていた今の母と繋がる。
あ、そうか...
わかったよ、お母さん..
私がご飯を作ったときニコニコしていたのは、私に味とか作り方が継承されてたからじゃない。お母さんが必死に子育てしてた時の精一杯の愛情が伝わってたんだって、分かったからなんだね。
幼い頃からずっと、毎日コトコト作られた母の愛情が食事となって私の細胞に運ばれてするっと入り込んでいたんだ。手を繋いでスーパーに行けるようになって、時々アイスとかを摘みながら帰った夕焼けの記憶と一緒に。ぼんやりと眠りながら食べた朝ごはんも、麺ばかりで飽きた昼ごはんも、ご飯が程よく固くてお味噌汁の具が同じだった夕ご飯も。それを栄養にして何万倍にも細胞分裂した結果が今の私なんだ。全部の細胞をたどった元にあるのは、その愛情のご飯なんだ。
もうあの日々を繰り返すことはできない。でもこうやって重なってきたことに気づいた今は、何かの渇きがすっかり癒される気がした。
母が暮れゆく空を眺めながらいつも私たち家族と一緒に食べるご飯を考えて手を動かしてくれたあの時が、そしてそれを彼女自身が愛情の表現と信じて疑わなかったから、地層のように積み重なって今がある。細胞の一つ一つに、核の一本いっぽんに、確かに繋がれている。
切ないけど、甘い。ご飯の固さの記憶とともに。
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