見出し画像

見た夢と働くことと

働きたいといえば、人は私に微笑んでくれますので。

今日の夢の中でかつての同僚が言った。

私は映画の中のワンシーンで「ここで働きたいんです!」と叫んだ少女を思い出した。

帰りたいとか辛いとか言わせてこようとする相手に対し、働きたいとだけ言いなさいと教えてくれた龍の教えを守るのだ。

働きたいんです!とだけ叫ぶ少女に恐ろしい魔女は一ミリたりとも手を出すことができなかった。

あの夢もあの映画を思い出した意味も、私に何を悟らせたかったのだろう。そんな意味などないと確信しながら、私は時々こうやって、深夜のアソビをする。

この自粛生活で、私はやっと本来の人間の生活を取り戻した気がした。私の本業の会社はいま一時帰休中である。働いているときには早い日は朝4時に起き、遅い日は家に帰り着く時間は深夜1時である。この会社に入る時に自分で選んだと言いながらも、いざこうやって毎日同じ時間に起きる生活の尊さを実感している。

副業をやるといっても限られている時間だし案件も少ししかないので、昼にもゆっくりと布団と一体になることもある。

働くのは好きだけれど、なるべくならば自分しかできない何かをやっていたい。どんな小さなことでもいい。リストラされるからとかそういうことじゃない。どうせ働くのならば、そこに何かあったほうがいいと思う。

日常は基本的に流れているものだと思う。点点としているものではない。一本の線が揺蕩うように、ゆっくり揺れて朝目覚めた時から夜眠りにつく瞬間までが繋がっている。緩い流れだけどきっと止まることなんてない。何かの事件が起きて、命が堰き止められなければ。

だからこそ日常の流れを思い出すのも、時にはそこにえいやっとテコ入れをして流れ方を変えるのも、意味を見出そうとするのも人間なんだと思う。

本能と共存しながらも本能だけの世界から抜け出して理性を持っているからこそ。

そんなことを考えていると、ふとある写真が目に入った。




モノクロ写真をリタッチしてカラーに変えている方の画像だった。昨今はAIもあるが、この方はAIに頼らず手作業で味を出すことがポリシーのようだ。

このセピアとモノクロの融合のような、絵画と写真のあいだのような質感に目が奪われる。写真にもともとある時間や命や瞳の輝きや感情に一つ一つ色を足して浮き上がらせたようだ。本物より際立って見える。

私も向き合うものにこうやって命を吹き込んでいたい。いや、元あるものが私が居て少しだけでも浮かび上がったり良くなったりするでもよい。その時の達成感は小さいものでも日常の流れる線をキラキラと彩る。

簡単に辛いことばかりの流れになったり、苦しさに耐えなくてはいけない状況にもなるから、そんな達成感の中に生きていたい。



いつもありがとうございます。 頂いたサポートは、半分は新たなインプットに、半分は本当に素晴らしいNOTEを書くクリエイターさんへのサポートという形で循環させて頂いています。