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そうか、父さんは死んじゃったんだよな。~まえがき~

それは、突然のできごとだった。

近しい人の死に直面したとき、ほとんどの人がうろたえ、悲しみに打ちひしがれることだろう。

私にとってもそれは、例外ではなかった。

もうすぐ三十にもなろうというのに、
親しい人であろうとなかろうと、誰かが死んでしまうということに対する免疫がまるでなかったのだ。

それが、最も身近な肉親の衝撃的な死によって、
否が応でも「死」への認識と理解をせざるを得なくなった。

人は生まれたら、いくらか生きて
やがて死んでゆく。
そんなことは分かっていた。

はじまりがあれば終わりがある。


テレビでは毎日のように誰が亡くなった、殺された、といったニュースが流れている。
日々たくさんの命が生まれるかたわら、多くの命が消えていく。

それは至極当然の自然の摂理であり、誰に説明されるでなくとも、どこかで分かっていると勝手に思っていた。

けれど、そのすべてが他人ごとで、
思い込みに過ぎなかったことをすぐに理解した。


……父が死んだのだ。あっけないほど、突然に。


その知らせはまさしく文字通り青天の霹靂であり、まったくもって信じがたいことであり、これを書いている二カ月経過した今でも、
未だに理解しがたく受け止めきれていない自分がいる。


父が死んだ事実を、考え、自分の中で認識しようとすると、胸がズキンと痛くなり、くらくらとめまいがする。


そして、思うのだ。

「あぁ……そうか、
父さんは死んじゃったんだよな」 と。


しかし、死ぬとはなんだろうか。
一体、父はどこへ行ってしまったのか。

もう二度と、会うことも、
話すこともできないのだろうか。

そして、なぜ父は、
私たち家族に何も言わずいなくなってしまったのか……


何度も繰り返した、たくさんの理解の追いつかない疑問が、堂々巡りに浮かんでは通り過ぎる。

この疑問に自分なりの答えを導かないことには、
あの日私の頭上に重たくかかった白いモヤの中から
出ていくことができないような気がした。


こんなにも理不尽で理解不能なできごとは、
誰もが「忘れたい」「嘘ならば」
「時間が戻せるなら」と願うことかもしれない。

けれど決して過去には戻れず、
何もなかったことにはできない。


あの日のことを忘れたくはない。

父が死んでしまったことで、
私が向き合うべきことはなにか。
知るべきことはなにか。

きっと学びとれることがあるはずだ、
なにか意味があったはずだ。
そう、思わずにはいられない。

父の死を、ただの無に帰す
寂しいできごとで終わらせたくない。

だから、私は筆を執った。

父が死んでしまったあの日からのできごとを、
私や家族たちの思いを、一自死遺族としての
死への向き合い方を書き残すことで、
自分の心にかかったモヤを少しでもぬぐい、
前へ進むための糧としたかったのだ。

父が生きられなかった分も、
前を向いて笑って生きていくために。


今日から、父の自死についての備忘録や、それにまつわる様々な感情や思いについて書いていく。

これから書くすべてが自分自身の糧となり、同じような誰かのもとに届いて、何か小さな救いや、前向きな行動のきっかけになることを願う。

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