見出し画像

アヒージョ作るときのやつ

固有名詞で物を呼びたいときがある。
いや、呼びたいときがあるというか、呼びたい。
むしろ、呼ばさせてください。
その方がスマートだとさえ思う。

僕はこの世の中の固有名詞を知らなすぎる、
と思うときがある。

例えば、スキレット。
スキレット、という単語を聞いて、
スキレットが何なのかを説明できる人はどのくらいいるのだろうか。

僕がスキレットという単語を口にする場合、
アヒージョ作るときのやつ、
という言い方をしてしまう。

呼びたい物の固有名詞が分からない場合、
その固有名詞の用途を述べる。
そして、それに"やつ"や"もの"を付ける。

物の用途におおよその共通認識があると信じ込んでいる。

アヒージョ作るときのやつ取ってくれへん?
と言った場合、
大抵の人はスキレットを取ってくれる。
スキレットの名称を知らずとも、
これでアヒージョが作れることに共通認識があるからだろう。

だが、スキレットを取ってほしい。
と言われると僕には取れない。

注文が鳴り止まない慌ただしい厨房で、
スキレットを取って、と言われても、
僕はすぐにスキレットを見つけることができない自信がある。

ここでスマートに、スキレットを渡すことが出来れば、厨房も効率良く作業ができ、
なんの支障もきたさずに料理を提供できる。

スキレットを取ってほしい。と言われ、
え、スキレット?!
スキレットってなんですか?!?!
という、いらない無駄なワンクッションを挟まなくていい。

スキレットという単語の共通認識がある方が、
スマートなのだ。

ここで、もう一つ、
上記で少しだけ述べた、
"やつ"と"もの"について物申したい。

これらの単語はあまりにも便利すぎる。

日本語の大抵の会話には、
この単語が使われているのではないだろうか。

固有名詞が分からなくても、用途に"やつ"や"もの"をつけると、共通認識ができる。

"やつ"や"もの"の便利性が凄まじるあまり、
僕みたいに固有名詞が分からなくなっている。

僕が固有名詞を知らない理由は、
もはや、"それら"の便利すぎる単語のせいなのだ。
と、僕は声を張り上げたい。

コンビニでアメリカンドッグを買ったとしよう。
その場合、ケチャップをくれますか?
そう店員さんに尋ねると、
ディスペンパックを渡される。

ディスペンパックとは何か分からない人もいると思うが、ケチャップとマスタードが1つのプラスチック容器に入っており、指でその容器をパキッと割る"やつ"だ。

この場合、レジ前でディスペンパックをください。
と言わず、ケチャップをください。
というケースが多いと思う。

もはや、"それら"の単語も使わずに、
ケチャップという単語を使う。
そうるすと当たり前のようにマスタードもついてくると思い込んでいる。

ケチャップという単語の中に含まれている、
申し訳なさそうなマスタードにも少しだけ同情する。

固有名詞が持つ共通認識
(スキレット→アヒージョを作るやつ)ではなく、
用途や、中身から印象付けられた共通認識
(ケチャップ→ディスペンパック)を持つ固有名詞がこの世の中には存在している。

では、スキレットと、ディスペンパックの違いとはなんだろう。

僕の中では、スキレットも、ディスペンパックも、
日常生活で口にすることは、まぁあまりない。

コンビニ店員ですら、
ディスペンパックを口に出したことがないと思う。

飲食で働いている人なら、
スキレットを口にする機会はあるだろう。

人、それぞれの環境で、
触れ合う固有名詞が違い、
口にする回数も変わってくる。

だが、しかし、
これらのスキレットやディスペンパックの名付け親が、この世の中にいることも確かなはずだ。

どうして、スキレットにしたのか。
どうして、ディスペンパックにしたのか。

これらの名称に決まる過程は、
何人もの人が関わっているはずだ。

それにもかかわらず、
僕は固有名詞が分からない物に、
"やつ"や"もの"を語尾につけ、
ふんわりと共通認識の面で相手に頼っている。

別に、固有名詞を知らなくとも生きてはいける。
しかし、スキレットもディスペンパックも分からない"やつ"は、スマートになり切れない。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?