見出し画像

わたしの神様

🗼滞在のことを振り返る。前夜、仕事を終えて最終便で羽田に降り立った。今回の旅のメインは、世田谷美術館で開催されていた📷藤原新也さんの展覧会を観るため。それに日光が加わった旅路になった。

東京の友人と待ち合わせの前にどうしても行きたい場所があった。東京の夜明けは遅くて、ホテルに着いたのが0時を過ぎてからだったので、わたしもうっかり寝坊してしまった💦友人との待ち合わせを30分遅らせてもらい、わたしは、自分の目的地へ向かった。

朝早く、月が出ていた
赤坂見附

久しぶりに降り立つ馴染みの景色。最初の頃は、駅を出て、右なのか左なのか分からずに初発、道を間違えたりしたものだった。今では数年経っても身体がちゃんと覚えている。普段、南に住んでいるので、北へ来ると樹生態や街路樹が変わって、普段見慣れない落ち葉を踏みしめたり、新鮮。数年前と変わらずに、同じ場所に知っている会社やお店があると、安心して歩ける。不況もコロナ禍も乗り越えたのだな、と。逆に様変わりしていると、色々な事情があったのだろうと勝手に妄想ドラマを頭のなかで仕立てる。

数年前、激鬱で息をするだけで精いっぱい、もう外へ出ることすら叶わないだろうと思っていた。そんな頃に本の出版が決まり、出版や印刷に関する話し合いなどの為にわたしは東京へ行かねばならなくなった。玄関から一歩も出られないのに、、その時のわたしには東京は世界の果てに思えた。そんな矢先にコロナ禍突入。わたしは東京に行かずに済んだ。どんなにお金がなくなっても、色んな事情でわたしは旅に出る機会を得られることがある。これは、居るか居ないか分からないけれど、神様のお陰ではないかと思うことがある。

数年前、四谷三丁目で仕事が入っていた時に、たまたま散歩をしていて出逢った神社がある。

豊川稲荷赤坂別院

それから東京を訪れる際には、ご挨拶にお詣りに伺うようになった。こちらに融通銭という御守り?が配布されており、お詣りの際にいただいて帰る。

融通銭
中に硬貨が納められている

数年前にいただいた融通銭。こちらをお返しにうかがいたいと事あるごとに思っていた。今回、こちらをお返しして御礼が出来た。迷ったけれど、また新たに融通銭を持ち帰らせていただいた。神社入口の文言書が後押しとなった。そして、芸能の神様もいらっしゃるのだろう。そちらにも御礼のご挨拶が出来た。

マツコ・デラックスさんのお名前発見👀
嬉しかった✨笑

色んなことが、わたしの力ではなく、何かの複合的なお陰で生きていると感じる。わたしだけでなく、全ての人に言えることかも知れないけれど。わたし自身がそんな風に感じずには説明がつかないことがたくさんある。

足速に赤坂見附を出て🚃四谷三丁目に向かう。こちらの神様にも、どうしても御礼を伝えたかった。どんなにお金がなくなっても、食べるものに困らないことがよくある。周りの方のお陰であるけれど、こちらの大黒様のお陰が大きいのでは?、、と勝手に思っている。ここ2年くらいお米を買っていない。色んな方からいただいたり副賞でいただいたり🌾不思議で仕方ない。

須賀神社の大黒様

神社仏閣に詳しくはないけれど「気」がいいな、とか「気」が怖い気配には近付かないでおこう、とか神社仏閣に限らず、日常からそんな身体のセンサーを基準に生きてる。🎥「君の名は」で聖地となったこちらの神社。映画公開の未だ有名になる前、仕事で滞在している際、滞在先とほぼお隣だったので毎朝散歩がてらお詣りしていた。こちらの大黒様が微笑ましくてなんか好きだった。久しぶりにお逢いできた大黒様。食べるものに困らず生きてお逢いできたことの御礼を伝えられた。

さて、それから一目散に友人との待ち合わせ場所に向かう🚃💨

まだ📷会期中なので、まだ観ていない方の為に🤗☕✨さんが配慮して下さったみたいにわたしも掲載を控えたいけれど、ひとつだけ。

開催中の藤原新也展より

自分が苦しい時には、本当に思う。神様のいじわる…って。亡くなった祖父が生前言っていた。戦争があってシベリアに抑留されて、その時に「神はいない」と思った、と。だけれど、わたしは、やはり、目に見えない何かの存在によって生かされているのだと思わずにはいられない。色んな宗教感があって、神様を特定する方もいるけれど、わたしは、特定せずともいいや、と考えている。その方が窮屈にならず、わたしは、生きやすい。

羽田から帰る飛行機の上空で、わたしは気が付いたら泣いていて、自分であれ?なんで?どうして?と思った。涙の理由を自分なりに考えて、ひとつ分かった。わたしは頭で納得させようとしていたけれど、心はまだだったのかと。

前にも書いたけれど、年末あたりから仏教用語でいう怨憎会苦の苦とわたしは闘っている。事象自体は解決したけれど、なんで自分にこんなことが起きたのか、時折考えてしまう。もう済んだこと、忘れようとしても、思い出す引き金になるような出来事に遭遇すると思考が持っていかれてしまう。幼馴染のお母さんが、年始に「大愚和尚」のYou Tubeをお風呂に入って聞くのが最近のマイブームと教えてくれて、わたしも開いてみた。

一年前、担当して下さった弁護士さんに御礼に伺った時に「よく耐えてがんばりましたね」と言って下さった。たくさんの方に支えていただいて乗り越えられた。わたしは幸せだと思う。けれど、受けた苦しみからまだ癒えていないことに気が付いた。上空でひとり泣きながら、未だだったんだね、納得してなかったんだね、辛かったよね、と思った。

世の中には当事者にしか分からない苦しみがたくさんあると思う。病や老いに苦しんでいる方、災害に遭った方、貧困に苦しんでいる方、仕事や学校が辛い方、家族や伴侶、お子さんの事で悩んでいる方、いじめに遭っている方、最愛の方や家族、ペットとの死別、別離、喪失感や孤独に苛まれている方、今日明日がどうなるか不安でたくさんな方もいらっしゃると思う。他にもわたしが知らない苦しみの渦中にいらっしゃる方がたくさんおられることだろう。

渦中は、いつ抜けられるか分からない暗闇のトンネルに放り込まれて、そこに底なしの蟻地獄があるみたいに感じる。鬱のわたしはそんな風で、今日も生きていることが残念だった。

そんな中、家にある小さな植物がかすかな光を求めて、そちらへ向いて芽を伸ばして生きようとしていた時に、大変感動した。光の方へ、光の方へ。

どちらが光かすら分からない時に、わたしに懐中電灯を照らして待っていてくれた方がたくさんいる。わたしは直ぐに動けなかったけれど、今、お陰様でわたしは元気に過ごす事が出来ている。元気になるとやっとの思いで元気になったことを忘れて欲深いわたしであり、時折生きているからこそ味わうような苦難にも遭ったけれど、たくさんの方と居るか居ないかわからない神様に、わたしは感謝している。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?