日記 絶えない阿呆な願望

 私は毎日更新される自殺者数に加わっていないだけなのではないかと時々思う。
 駅のホームに立てば眼前に死があり、ベランダに立てばそこにも死があり、高い建物を見てはそこにも死の可能性を感じる。それを危険性とはどうにも呼べなく感じることが間々ある。
 「あの高い梯子に登って行って、そのまま丁度良さそうな高さまで来たらパッと手を離してしまいたい。」
 偶々外を出歩いていた時に見かけた屋上に貯水タンクのある建物に取り付けられた梯子を見た際の感想である。何の比喩でもなくただそう思う。後ろに仰け反って安っぽい塩ビの人形が地面に落ちるようにして空中に投げ出される自分の姿が脳裏にぼんやり浮かぶ。でもその後は?その後は人形のようにはとてもいかないだろう。色んな人に迷惑をかける。
 「人間でさえなければ、生き物でさえなければ簡単に捨てられるのに」。そんな風にも思う。空疎だ。地面に打ちつけられた後、踏みつけられたって何とも思わない。その瞬間に意識そのものを失って、"命"を失ってしまえば私は居なくなれるのに。

 妙な話、どうして私達は無機物に命を垣間見たような気がするのだろう。それは生き物"らしさ"を対象が兼ね備えているから?ただ自分の面影を重ねて見ているに過ぎないからだろうか?
 絵なんてただの画材に描いた現実や理想の模像に過ぎないのに、それに命を感じることがある。機械のようなあからさまな無機物に人格を感じる人さえこの世には存在する。


 どうして、ぽんと捨てられないのだろう。私はそれらを捨てることができた。何も感じなかった訳ではないけれど。廃棄するのに手間がかかる物もあった。人間も同じか。その処理を私でない人間がするだけだ。灰にする段階までを。
 誰かに「面倒なので殺してくれませんか」と依頼したら殺してくれるのだろうか。倫理的に考えても安楽死を国は認めないだろう。死の間際にいて生きながらえたいとも思っていない老人をも生かす国なのだから。でもだから、私はこうして生きることができているのに。

 全く、贅沢な悩みで愚かにも程がある。ここまで書いて漸くそんな気を取り戻してきた。折角生きる贅沢を与えられているのだから愚かだろうが幾ら悩もうが生きて、そして死ねばいい。それからで遅くない。まだまだ阿保でいる事に私は飽き足らない。それでもいい。"従順なお利口さん"である必要はなかったし"賢明で才能ある善人"である必要も突き詰めてしまえば特に全くない。だからまだその境界を(まして自ら)越えなくていい。

 そして私はまた嘘を吐いている。結局自分は何も捨てられてやいないじゃないか。それはただ物理的に手放したに過ぎない。まだ生きているしまだ大切に抱えている。そしてそれを幸せに感じている。

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