素敵なあの人から「みる・きく」を学ぶ /【江田英里香先生インタビュー前編】自分軸をもって、夢も仕事も家庭もあきらめずに楽しむ
※本投稿はオンラインサロン<ChildcareHOUSE>内の掲載記事を、一般公開用に縮小したダイジェスト版です。
女性は、男性に比べて仕事をするということにおいては、まだまだ不平等さが否めません。結婚して、共働き夫婦でいるときはまだしも、子どもができれば、妊娠出産で体に負担がかかるだけではなく、子育てにおいても女性の負担は続きます。女性が子どもを育てるのが当たり前の風潮は令和の時代になっても続いています。
社会においては、待機児童の問題は、保育園の数なども少しずつ増えてきましたが、保育士の数が足りないなどまだまだ問題が解決されていません。
就学してからの子どもの居場所、病気のときの子どもの見守りなども整っていないので、そうなると母親に負担がかかってきます。そうした状況で仕事を辞めざるをえなくなり、夢をあきらめることもあります。
また仕事を優先することにより、子どもを持つことを諦めざるをえなかったり、子どもを持つタイミングがなかったり、また不妊となるケースもあります。女性の負担を軽減しなければ、少子化問題はなかなか解決できません。女性が当たり前のように仕事をして、子育てをして、自分の夢を持つことは、それこそ夢のような話だと思われるかもしれません。
でも、それは、本当にそうした社会のせいだけなのでしょうか。
風の時代と言われる今、これまでの固定観念を変えて、自由の概念を自分軸にもつことで、これからは様々な形で女性が社会で活躍できる場は広がります。そして、子どもも多様性をもって子育てしていくことで、より豊かな「家庭」が築かれると思っています。
今回インタビューさせていただいた神戸学院大学の江田英里香先生は、実は私が家庭教育を学ぶ場で、お会いしたことがきっかけで、お話をさせていただくようになりました。先生のご研究や国際協力活動における実績にも深く興味をもちましたが、先生ご自身のプライベートにいつも驚かされることが多くありました。
大学で教鞭をとる一方で国際協力でカンボジアでの活動にお忙しい中、お会いするたびに妊娠されていたり、傍から見れば大変であろうことは想像がつきましたが、それでもキラキラした瞳で豪快に笑いながら「大丈夫です」と返されると、案じた自分が恥ずかしくなることさえありました。 ご本人にとって、大変なことではなく、自ら選びその人生を楽しまれていることをいつも感じていました。
さすがに4人目のお子さんを授かられたときには育児休業でゆっくりされているのだろうと思っていたところ、その間に博士論文を書かれて、博士号を取られたことを知り、まさにあっぱれという気持ちになりました。もちろん、それまで道のりはやっぱり大変だったはずです。簡単なことではなく、江田先生やご家族、周りの方に助けられてのことではありますが、それも全部江田先生のご自身の努力と、周りさえもそのパワーを巻き込んでしまう笑顔で自分の道を開かれていると感じます。
今回は、パワフルな江田先生の生き方、夫婦としての在り方、子育ての考え方などを皆さんにお伝えしたいと思います。
<江田英里香(えだ えりか)先生プロフィール>
神戸学院大学現代社会学部 准教授
日本家庭教育学会 常任理事
大学時代にオーストラリアで日本語教育を行うプログラム[1]にインターン参加したことをきかっけに、その後マレーシア、タイなど一人旅にハマる。ベトナムを訪れた時に、地方の子どもたちと都市部の子どもたちの格差に衝撃と疑問を持ち、国際教育開発の研究を始めるきっかけとなった。中学校英語教師になることを考えていたが、恩師からの誘いを受け、神戸大学院国際協力研究科で途上国の教育開発の研究を続ける。
研究の傍ら、カンボジアでの国際協力活動にも参加し、カンボジアでの移動図書館を運営するNGO[2]の立ち上げに関わる。運営が軌道に乗った現在は現地のカンボジア人に引き継ぎ、後方支援をしながら村に図書館を建設。現地の子どもたちの要望で、英語、日本語、コンピューター、サッカーなどの教室を開くなど、学生を引き連れて精力的に活動支援を行っている。
プライベートでは高校教諭を務める夫が育児休業をとるなど夫婦で協力しながら、育児、仕事、研究、地域活動を続ける。現在、山梨で暮らす夫とは離れた生活を送っているが、4人の子どもたちと笑顔の絶えない生活を満喫している。
大学での研究
―――― 江田先生の大学でのご専門を教えてください。
江田先生(以下敬称略) :現在は、神戸学院大学の現代社会学部の社会防災学科で、カンボジアをはじめとする途上国の教育開発について研究しています。
そのきっかけとなったのが、大学時代にベトナム旅行をしたときです。北から南まで1か月かけて巡るうちに都市部と比べて地方に学校に行けていない子どもがたくさんいることに気づきました。なぜそのような教育の格差が生まれるのか、教育を受けたくても受けられない子どもたちがいる状況を目の当たりにし、少しでも改善できることはないかと考え、大学院に進学し、研究を始めました。
またそれと同時に実際に国際協力活動にも参加し、実際に学生を連れていきボランティア活動をしています。ゼミでは、SDGs(持続可能な開発目標)の17の目標から、学生ひとり一人が興味のある木曜を調べて発表しています。挙げられた目標は社会の課題から出てきたものです。それを皆でどうしたら解決できるかとことん話し合い、考えてもらうようにしています。
―――― 「話し合い」つまり、「対話」でもあると思いますが、人の意見や話を聞きながら、共感したり、疑問をもちながら自分の考えを持っていくというのは、とても大切な学習ですよね。今の学生さんはどのような感じでしょうか。また先生はどのように関わっていらっしゃるのでしょうか?
江田:私は、あまり壁を作って隔たりを持つタイプではありません。「先生らしく」「お母さんらしく」というのが苦手で「私は私」というスタンスでいつもやってきていますので、学生に対しても同じです。今の学生というか、この大学の持っている環境や特徴なのかもしれませんが、穏やかで素直な子が多いです。
家庭環境にも恵まれてきているのだと思います。しかし、一見すると、穏やかで素直な子たちですが、基本的に受け身なので、自主的に自分がどうしたいのかとか、どれを選ぶのかというのが苦手です。「どれでもいい」「何でもいい」「わからない」という感じですね。全体的に受け身なんです。能動的に何かを起こすことができません。だからできるだけ、選ばせることや自主的に何かをさせるようにしています。
―――― 「選択できない」「わからない」というのは、親世代にもあるキーワードかもしれませんね。
夫婦と子育てと家庭とキャリア
―――― 唐突ですがいきなりプライバシーのお話になりますが。研究とボランティア活動で忙しい先生がどのようにご結婚を決意されたのでしょうか。
江田: 公立高校の教諭をしている夫とは、私が大学院生のときに出会いました。11歳も離れているので、遠距離恋愛をしていましたが、結婚するタイミングにはとても悩みました。私は卒業して、社会人になってから結婚したかったのですが、夫の年齢はすでに30代半ばを超えていましたから、早く結婚して子どもが欲しいと思っていました。遠距離もしていたので、早く落ち着きたかったのだと思います。
それでも、なんとかごまかしながら、私はカンボジアに行ったり、自分の研究にも励んで、27歳の時に横浜の大学に就職しました。それで、社会人にもなったので、それを機に結婚してもいいかなと思いました。29歳の時です。
でも、結婚したからといって、専業主婦になるわけでもありませんし、私の性格では良妻賢母にも夫の後ろを三歩下がっていくこともできません。それでも、夫はこんな私を選んだのだから、結婚後も私のことを尊重してくれるだろうと思えたんです。夫はいいお父さんになる人だと思いました。子どもができても、きっと私も含めて支えてくれる人だと思えたので、結婚するのであればこの人だと思えました。
私は、勉強だけできるひ弱な男性ではなく、力もあって、技術もあって、知識を持っている人が好きなんです。結婚をする相手は、無人島に漂流したとしても、一緒に生き延びることができる人と決めていました(笑) 夫は、虫も平気だし、狩猟もできるんです。イノシシとか鹿もさばいてしまう豪快さもあって、ごはんを作るのも上手なんです。だからこの人と一緒になれば無人島でも生き延びていけるだろうと思いました(笑)
でも結婚してから、夫が泳げなかったということを知りました(笑)だから「運動のため」と水泳教室に通うようにけしかけました。そうしないと無人島に漂流したときに困りますから(笑)おかげさまで泳げるようになりましたので、船が遭難しても無人島には何とか漂流できそうです(笑)
―――― そして今は4人のお子さんのおかあさんでもありますね。
江田:私は自分が3人兄弟の真ん中で、賑やかに楽しく育ちましたので、子どもは少なくとも3人は欲しいと思っていました。夫は、6人兄弟の4男として育ちましたので、複数人子どもを育てることには大賛成でした。結局自然妊娠で4人授かりました。長男が中1、長女が小5、次女が小2、次男が年中です。現在は4人の子どもたちと私は、大学のある神戸に住んでいます。夫は、単身で山梨に住み、月に数回私たちのいる神戸に来るという生活をしています。
―――― 一般的に働く女性が妊娠、出産、育児となると、どうしても大きな選択を迫られます。妊娠・出産は、どうしても女性の肉体的な負担がかかり、仕方ないことですが、育児に関してもまだまだ子育てと女性は切り離せないものになっていますね。そのためにキャリアや夢をあきらめることも多いです。その中で先生は、ご自身のキャリアをあきらめることなく、4人のお子さんの子育てをされていますね。どのようにこの選択をされ、切り抜けてこられたのでしょうか。
江田:二人の子どもを出産、育児しているときは、横浜の大学で教えていました。必修ではなく、選択科目の担当だったので、時間的に余裕もありました。しかし、山梨から横浜までの通勤時間が2時間以上と長かったことと、所属していた学科の学生募集が停止となったことから、自分自身の今後のキャリアを考えていました。
そのころ偶然か必然か、そのタイミングで大学時代の恩師から新しい学部でボランティアを教えられる人を探しているという連絡をいただいたのです。すぐに「それ私ができる!」と思いましたが、すぐに手を挙げるには迷いがありました。
当時は夫が公務員として働く山梨で暮らしていましたから、私が神戸で働くならば、夫婦別居となります。私のキャリアは別としてプライベートでは、二人の子どもに恵まれ、山梨の良い環境で暮らし、将来は家でも買って・・・・・という幸せな家庭の流れも感じていたんですね。
その中でどちらかが離れて暮らすことで、この生活を壊してしまうのは、どうなんだろうか、一方で恩師から声をかけてもらえることはとてもありがたく、私自身のキャリアを考えれば住み慣れた神戸で、慣れ親しんだ母校で働くことができるのは一生に一度の大チャンスだとも思ったので、とてもとても葛藤がありました。そんなときに夫は、「離れたとしても自分たちは自分たちらしくやっていけばいいのだから、大丈夫だよ」と励ましてくれ、前向きに考えてみることにしました。
ありがたいことは続くもので、欲しいと思っていた3人目の子どもをこのタイミングで授かったんです。公務員は、男性でも育児休業制度が利用でき、最大3年間(うち2年は手当なし)取得することができます。夫がこの制度を利用すれば3年間は家族離ればなれにならずに一緒に神戸に行けると思いました。
もうこれは皆で行くしかない!ということで、夫には山梨県で男性では最長となる3年間の育児休業を取得してもらいました。夫は期間限定の専業主夫として、私は大学教員として、夫婦で家庭を支える形で、山梨から神戸に移り住みました。
―――- ずいぶん思い切りましたよね。
江田:そうですね。でもそれが自分にとっても家族にとってもベストな選択だと思いました。私が私らしくいられるキャリアを選ぶことを夫が応援してくれましたし、そのタイミングで子どもも授かり、あれもこれもベストなタイミングでした。
「できる限り家族一緒に暮らしたい」と思っていましたので、3年間夫が育児休業取得することで家族皆で神戸で暮らせるということですから、もう運命だと思えたんですよね。
神戸では、専業主夫となった夫は、子どもたちのお弁当作り、幼稚園(共働きではないので、子どもたちは保育所ではなく幼稚園に行きました)の送り迎え、さらにはママ友さんのお付き合いもしてくれました。大学から戻ってきた私にご飯を用意してくれ、子どもたちの様子の報告を受けるという感じで、一般の夫と妻の役割が逆転している形です。もともと生活力のある人なので、安心して任せられました。
―――― ご主人の夫として、そして父としての子育てに対する覚悟と責任を感じますね。なかなかそのようにしてくれる男性はまだまだ少数ですよね。新しい夫婦の在り方であり、子育てのスタイルかもしれませんが、社会が早くそのような形が自然であり、特別な在り方ではなくなるといいですね。特別、異例である以上、なかなか女性のキャリアと子育てはうまくかみ合っていかないですからね。
江田:私は自分が特別だとは思ってはいません。いたって「普通」と思っていますが、夫に言わせると「全然普通じゃないから、僕が努力しているんだ」っていわれますね(笑)
もちろん夫は、年も離れているので、私よりずっと大人ですが、さらに大人の精神で見守ってもらえていると感じます。私は、「私らしくありたい」ということにはこだわります。そのために、何ができるか考えて行動しています。何か問題があっても「何とかなる神様がついてる」と勝手に信じています。実際は周りの人たちが何とかしてくれているわけで、特に夫の理解や支えは不可欠です。
―――― そして、まだ続く先生の伝説(笑)。末のお子さんを妊娠されたときにとった産休中に博士論文を出されたと聞いて大変驚きました。わぁ~また超えてるって思いました(笑)
江田:そうなんですよ。博士論文を出すためには、やはり期限があってさすがに私も後がない状態になり、受け持っている先生に発破をかけられ、やるなら今しかないと思い、博士論文を書くことを決めました。担当の先生にも「女性は妊娠や出産があって大変ですよね。」と言われたのですが、「4人目はない(と思います)のでしっかり取り組みます」と元気に返事をした数日後に4人目ができていることが分かりました(笑)
担当の先生もさすがに驚かれましたが、「まずはからだを大事にして、できることをやっていきましょう」と背中を押してくれました。実はその頃、夫は、3年間の育休を終えて、山梨に戻って仕事を復帰する予定で考えていました。でもそうなると、夫と別居して、妊婦の私が仕事をしつつ、一人で3人の子育てをしつつ、論文を書くということになり、さすがの「何とかなる神様」にも手に負えないということは明らかでした。
完璧に「詰んだ状態」になり、博士論文を諦めることも頭をよぎりました。しかし、これまで妊娠、出産を理由に先延ばしにしてきた博士論文でしたが、「いつかは完成させる」ことを決めていましたし、夫も私が博士論文を書くことを応援してきてくれていましたので、是が非でもそれだけは回避したいという思いでいっぱいでした。藁にも縋る思いで、制度を調べたり、色々なシュミレーションを繰り返しました。
最終的に、夫には4人目も引き続き育児休業を3年間取得してもらうこと、私自身も育児休業を取得するという、夫婦でのダブル育児休業を選択しました。その間、私は自分自身の身体の回復と4人目の育児と博士論文のみをやり、それ以外の3人の子どもの育児や家事全般は夫にやってもらいました。何とか、博士論文を書き上げることができたのは、夫の支えがあったからこそです。神戸で夫はトータル5年間の育児休業を取得し、現在は山梨に戻り単身で暮らしています。
―――― ここでもあきらめずに「覚悟」のスイッチが入ってますね。
江田:私の場合、博士を取ることは本当に遅くなってしまったんですね。一緒に働く実習助手の方々にはすでに博士をとられたりしている方もいて、若い博士に「先生」と呼ばれることに引け目というかモヤモヤした思いも感じていたので、ここでやらなければ後悔すると思いました。
また、結婚するときに私の母が夫に伝えた「博士号を取らせてあげて欲しい」ということを夫は忠実に守ってくれ、ことあるごとに一人の時間を作って支えてきてくれました。今回の追加の育児休業もそのためでした。夫や指導教員や周りのいろいろな方に助けていただき、取れたものだと思っています。
博士論文は時間が掛かればかかるほど、大きな大きな重荷となっていましたので、大変でしたが、博士をとることができて本当によかったと思っています。それまでやりたいことがあってもやり残している博士論文が気になって前に進めなかったことが色々ありました。本当に難産でしたが、博士を取得することができ、これからは次のステップとして「やりたいことをやるぞ!」という気持ちがもりもり出てきました。
―――― それでも妊娠中って、すごいですよね。いつも先生の人生の岐路にお子さんがキーパーソンになっていますね。女性のキャリアにとって、子どもの存在は、負荷ととらえ考えがちですが、先生の場合すべてポジティブな切り返しになっていますね。 まさにパワーチャイルドを授かった感じですね。そして、ご主人の深い理解と愛に支えられていますね。でもすべては先生ご自身が自分で決めた人生を歩まれていますね。
【後編につづく】
「素敵なあの人から「みる・きく」を学ぶ@江田英里香先生インタビュー前編」をご覧いただきましてありがとうございます。次回の「素敵なあの人から「みる・きく」を学ぶ@江田英里香先生インタビュー後編」は、
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