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プリズム劇場#018「ご機嫌に包まれる人」

こちらはラジオドラマ番組『小島ちひりのプリズム劇場』の作品を文章に起こしたものです。
是非、音声でもお楽しみください。
【standfm】
https://stand.fm/episodes/6640979e56c8712271a5af2e
【YouTube】
https://youtu.be/OpgJOCz_eeQ
【その他媒体】
https://lit.link/prismgekijo


亀井秋恵(77)「お父さん、ほら、急がないと遅刻するわよ」
 
秋恵M「居間の時計を見ると、もう9時を回ろうとしていた」
 
亀井利光(79)「しまったしまった」
 
秋恵M「夫は慌てた様子で帽子を被る」
 
利光「おかしくないかな?」
秋恵「大丈夫」
利光「愛菜ちゃんは喜んでくれるかな?」
秋恵「それどころじゃないと思うけど」
利光「それもそうか」
 
秋恵「行きのバスの中で、夫は明らかにウキウキとしていた。結婚して55年。この人はこんな感じでウキウキしていることが多かった」
 
利光(24)「ぼ、僕と結婚してください!」
秋恵(22)「え~、どうしよっかな~」
利光「え!? 駄目なの!?」
秋恵「うっそー! 秋恵は利光さんと結婚しまーす!」
 
秋恵M(77)「そんなノリだったものだから、母にはしこたま怒られた。『夫を立てろ』『三歩後ろを歩け』『一番風呂には入るな』等々。夫を立てて妻が手のひらで転がすのがいい家庭だと言うが、わざわざ立ててやんなきゃ人前にも出せないような男はお断りだった」
 
利光(79)「どうかしたかい?」
 
秋恵M「夫が不思議そうに話しかけてきた」
 
秋恵「いいえ。今日もいい男だなって思ってただけ」
利光「ええ? 照れるなぁ」
 
秋恵M「会場に着くと、ホールがいくつもあって迷ってしまった。二葉に電話をかけてみる」
 
大村二葉(52)「お母さん! こっちこっち!」
 
秋恵M「二葉が人混みの向こうで手を振っている」
 
二葉「よかった。たどり着かなかったらどうしようかと思った」
利光「愛菜ちゃんはいつ出るの?」
 
秋恵M「夫は二葉の後ろに着いていきながら問いかける」
 
二葉「始まったらずっとよ」
利光「ずっと!? それはすごいねぇ」
 
秋恵M「会場の座席は千席はあるかというほど広かった」
 
利光「愛菜ちゃん、こんな立派なところでやるの!?」
 
秋恵M「夫は会場を見渡しながら帽子を取った」
 
二葉「そうよ。卒業公演なんだから、気合い入ってるのよ」
秋恵「愛菜ちゃんももう大学卒業か。早いわね」
大村洋二(55)「お義父さん! お義母さん! こっちです!」
 
秋恵M「洋二さんがこちらに手招きをしている。会場の前側の席だった」
 
利光「洋二くん、いい席じゃないの」
洋二「気合い入れて取っておきました!」
 
秋恵M「義理の親子だが、この二人は何だか似ている」
 
利光「愛菜ちゃんソロあるの?」
洋二「あるらしいんですよ」
 
秋恵M「我が家の男2人がウキウキしている。機嫌のいい男。家族を励まし、褒め讃え、支えて来た。子供の行事には全て参加し、鳩胸を突き出し自慢げに家族写真に写った。それがわが夫と娘婿だ」
 
秋恵M「会場が暗くなると、高らかにサックスのイントロが聞こえた。『イン・ザ・ムード』ビッグバンドの名曲中の名曲だ。早いテンポをリズム隊が刻み、金管楽器の柔らかい合いの手が入る」
 
利光「あ、愛菜ちゃん」
 
秋恵M「夫は小声で呟く。ビッグバンドの一番後ろの段で、トランペットを構えている。茶色い髪を一つに束ね、黒いシャツを着ている。この曲は正直何度も聞いた。それでも、聞く度に、ああ、この子が幸せだったら何でもいいやと思った。この曲みたいに世界は楽しいだけではないし、美しいだけでもない。それでも、この瞬間だけでも、この子が幸せならそれでいい。私にとってはそういう曲だ」
 
愛菜「お祖父ちゃん、お祖母ちゃん、今日はありがとう!」
 
秋恵M「終演後、少しだけ愛菜に会う事ができた。夫は愛菜の顔を見るとエグエグと泣き始めた」
 
利光「すっごいよかったよ、愛菜ちゃん」
愛菜「ありがとう、お祖父ちゃん」
秋恵「卒業したらビッグバンドは辞めちゃうの?」
愛菜「趣味で続けられたらいいなって思ってるけど、仕事がどれくらい忙しくなるかまだわからないから」
秋恵「そっか、そうね」
 
秋恵M「愛菜や二葉たちと別れ、バスに乗った。夫はまだウキウキとしている。途中のバス停で大きな花束を持った女性が乗ってきた」
 
利光「別れの季節だね」
 
秋恵M「夫はボソッと言った」
 
利光「時間ってのは不思議だね。秋恵ちゃんとはもう随分長く一緒にいる気がするし、ほんの一瞬だった気もする」
秋恵「もうすぐ60年になるわよ」
利光「そんなに経つかい?」
秋恵「ええ、そうよ」
利光「すごいね」
秋恵「まあね」
利光「俺は一瞬たりとも秋恵ちゃんと一緒にいるのに飽きた事がないよ」
秋恵「え?」
 
秋恵M「私は一瞬考えた」
 
秋恵「そう言えば私もだわ」
 
秋恵M「夫はケラケラと笑った。今日も機嫌のいい男だ。桜が咲いたら散歩に行こう。きっとウキウキしながら桜を眺めるに違いない」

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