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【創作論】歴史考証とリアリティの狭間で

 どーも、筑前助広です。
 現在、絶賛開催中のアルファポリス主催、第8回歴史時代小説大賞。僕がデビューしたコンテストで、ネットから歴史時代小説家を目指す物書きの登竜門となっております。

 また、それに合わせて僕の盟友・早川隆先生が大御所作家・伊東潤先生と対談をしています。こちらもどうぞ。

 今年も力作が沢山投稿されており、僕もなるべく読んで感想をTwitterに投稿しております。その中で深く考えたのが、表題の件。「歴史考証」と「リアリティ」の違いです。

 まず僕の好みとして、歴史考証は無視してもいいと思っています。そうする必要があって、面白くなるなら。
※この辺の考え方は、作家によって千差万別。センシティブな話題なので、僕以外の向き合い方を否定する気は全くありません。

 ですが、それと同時にリアリティは感じさせて欲しいと思っております。例えば、歴史考証を無視した上で、摩訶不思議な展開でリアリティを放棄するならわかります(南総里見八犬伝や山風のようにね!)
「あ~そんなエンタメね!」と理解出来るから。しかし、今回気になった作品は違います。
 見掛けは普通の人情時代小説。ストーリーはいい意味で平凡で、歴史考証を無視する必要を感じさせません。
 ですが、該当作は歴史考証を無視した上に、展開にリアリティを感じさせません。そんな処置はせんだろ? 百歩譲ってしたとしても、そうする理由が意味不明。いくらなんでも、それは斬首されるよ的な。
 故に「作家が物語を上手く回す為の自己都合」に感じて仕方がありませんでした。
 アルファポリスの歴史時代小説大賞は、書店の歴史時代小説コーナーで戦える作品を求めています。つまり想定読者は、百戦錬磨の歴史時代小説ファン。厳しい目を持つ読者が、そのちぐはぐさを見逃すでしょうか?

 作者さんの文章は上手い。時代小説を安定して書ける力量があるから、ある程度の制約の中で書けば最終選考ぐらいは進むとは思うのだが、そこが目立ってマイナスになっている印象があります。
 伝奇寄りの時代小説は兎も角、本格な作品で歴史考証を無視するなら、「その時代ならありえそう」というリアリティで、読者をねじ伏せるのが大事ではないでしょうか。

 僕は自作で、黒田家を改易させるという歴史考証を無視しています。他にも阿片の蔓延と規制、田沼意次の開国計画。どれも、「あの時代なら有り得そう」という範囲でやっています(伝わっているかは別)

他にも、今回のコンテストでは「歴史考証」と「リアリティ」を巡って、今一歩と言う作品も目立っています。
 歴史時代小説への敷居を高くするので、あまりこういう事は言わない方がいいとは思うのですが、過去と現在のプロ作品を読み込み、その呼吸を学ぶのも大切ではないかなぁと思った次第です。

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