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壊れゆくもの...(1)

人は誰しも心の中に、懐かしい記憶を抱えている。私で言えば、それは幼い子どもの頃に見た景色だ。ぼんやりとしていて、でもその所々を私ははっきりと覚えている。陽が落ちて暗がりに包まれた公園の通りを、まばゆいばかりの明かりをまとった神輿みこしのような乗り物が次々と通っていく。頭の大きな人形達が手を振り、周りの見物客からは次々に歓声が起こる。きっと私は目を輝かせて心を躍らせていたのだろう。横に座った母の顔は明かりに照らされて目が輝いている。見上げると、私を抱いた父が嬉しそうな顔で私と目を合わせた。それは光に包まれていて、目に見える世界は眩しくて、両親の表情だけがはっきりと思い出せた。楽しくて、嬉しくて、幸せだった記憶が私の心の中に刻まれていたのだ。

でも現実は、時にひどく残酷だとも思う。歳を取るというのは広い世界を目にする反面、見たくもない景色まで見せようとするものだ。父親が2年の単身赴任を終えて戻って来た頃から、家の中には不穏な空気が舞うようになった。話される言葉は冷たくなり、語調は荒くなり、優しさとか思いやりとか、私が大切だと思っていたもの達はみな部屋の隅の方で怯えて暮らすようになった。特にここ数日は毎晩のように、両親の怒号が家中に響いていた。

「何よ、もういい加減にして。あんな娘産まなきゃ良かった!私の時間を返してよ、今すぐ!!」
「いい加減にしろ!お前はいつだってそうだ!自分だけ被害者みたいな顔すんなよ!お前のそういう所が俺は心底しんそこ気に入らないんだよ!!」

部屋のドアを閉めようが、両手で耳をふさごうが、互いに相手を罵り続ける時間が永遠に続くように感じた。最初は驚き、でも何とか止めようともした。そして思い知らされたのだ。私という存在は、既に両親の心の中にはいないようだ。
「いいから、お前には関係ない事だから。部屋に戻っていなさい。」
「あなたは黙ってて。何よ、あなたまで私が悪いって、そう言うの?」

優しかったはずの両親から思いもかけずに向けられた、冷え切った言葉だった。そして私の奥の方から、木の幹が弾けて折れるような音がした。心が少しずつ壊れていく、そんな感覚だ。お気に入りの大切なお皿が、ふと抱えた両手をすり抜け床へと落ちていく。お皿は高い音を響かせ、跳ねて砕けて破片となって、そして動かなくなる。言葉にすれば、そんな感覚だ。

急に足元が揺らぐようで、しっかりと立つのがやっとだった。動悸がして、胸がくるしくなって、私はひとりで泣いていた。声を出しても耳を傾ける人もいない。それが分かっているから、必死に声を殺して泣いた。泣いてるうちに息が荒くなって、頭が重くなった。そうして少しずつ意識が薄れていくのが分かった。もう落ち着ける居場所なんてない、その悲しい現実を前に、私は逃げるように眠りについた。


「さち、目ぇ腫れちゃってる…何かイヤなコトあった?」
翌朝、誰とも顔を合わせないように朝早くそっと家を抜け出した。いつもより30分以上も早いはずなのだが、何故かホームには既に同級の由香が電車を待っていた。
「ううん、大丈夫。なんか、早いね。」
私は思わず、気の抜けた返事をしていた。彼女は私の顔をのぞき込むように見上げ、伏し目がちにいつもの笑顔を見せた。
「ほうなら良いけど。なんか、ちいと気になるね。」
ためらいがちに、微妙な距離を保ちながら私の心の中に忍び込もうとする。いつもの由香の仕業しわざだった。でも今の私には、彼女を察する余裕などない。残酷な笑みをそっと浮かべて彼女を見返す。そして彼女は残念そうに駅の景色を何気なく見渡すのだった。

一人娘で気位きぐらいの高い私と、オトコ兄弟に囲まれて大切に可愛がられて育った由香。二人の関係性は不安定な平行線をなぞるように紡がれていた。何かの端につけ甘えようとする由香と、冷たく愛想を返す私。でも時々、私の虫の居所の良い時には思い切り彼女を可愛がるのだ。そして由香は有頂天になり、より深く愛情を求めようとすり寄ってくる。思春期と言われる年代なら親友と呼べる存在の一人や二人はいるのかもしれない。でも私たちの関係は、友人関係というには少しだけいびつな感覚があった。無邪気な彼女は、時に私を不安にもし、いら立たせていた。
彼女由香はいったい、どこまで傷つけても私のことを許すのだろう?』
込みだした電車に並んで立ち、前に流れる景色はほとんど目に入らなかった。私は嫌な記憶から逃れるように、ひとりそっと彼女への仕打ちを想像していた。



イラストは、いつものふうちゃんさんです。
いつもありがとうございます。


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