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【第59回】稲むらの火と津浪祭【安政南海地震と濱口梧陵】

問 稲むらの火について教えてください。

概要

 ①安政南海地震と濱口梧陵の活躍
 ②小泉八雲による小説化と国語教科書への掲載
 ③昭和南海地震での減災効果
 ④津浪祭

解説

①安政南海地震と濱口梧陵の活躍

 濱口梧陵(はまぐち ごりょう)(1820~1885)は、和歌山県広村(現広川町)出身で、ヤマサ醤油の7代目当主を務めたほか、駅逓頭(えきていのかみ・後の郵政大臣に相当)や和歌山県会議長を歴任しました。なお、ヤマサ醤油は、現在日本で第2位の醤油メーカーです。
 この広村は、古来より何度も津波の被害を受けていました。特に宝永4年(1707年)及び安政元年(1854年)の大津波では大きな被害を受けました。
 安政元年11月5日(1854年12月24日)の夜には、安政南海地震により約5mの津波が広村に襲来しました。この大津波は、15世紀に築かれた高さ約3.5mの波除石垣を超えて村に浸水しました。
 濱口は、当時30代半ばで、醤油ビジネスの最前線にいましたが、学者(松代藩士)である佐久間象山(1811~1864)から科学知識の伝授を受けていたこともあり、繰り返し津波が襲ってくるということを知っていました。そのため、第一波の津波襲来後に、自身の財産である積み上げられた稲の束(稲むら。食用の実を取り除いた後に干して乾燥させたものであり、肥料や縄づくりに利用していました。)に火をつけて、住民のために、高台にある広八幡神社への避難路を示す明かりとしました。このとき、合計で4回の津波が来襲したと言われていますが、暗闇の中で波をかぶって避難に苦労をしていた住民たちは、この明かりを頼りに避難し、住民の9割以上が助かりました(死者36人)。
 被災後に濱口は、莫大な私財を使って村の復旧に取り組み、家を失った住民のために住居、食糧、農具、漁具等を準備しました。また、当時最大級の高さ5m、全長600mの広村堤防を約4年かけて修造しました。
 住民も濱口の行動に感謝をして、細々と畑や漁の仕事をしながらも、懸命に堤防構築に協力しました。そして、この土盛の堤防の海側に松、陸側に櫨(ハゼ)の木を植樹しました。濱口がこの事業を実施することで、被災して仕事を失った住民に仕事を提供することができ、被災地からの住民の離散を防ぐことができました。そして、この堤防は、将来の津波への備えにもなりました。
 なお、1855年に安政江戸地震が発生し、江戸にあった濱口の店が被災する等当時の濱口のビジネスは大変厳しい状況だったようです。しかし、そのような厳しい状況の中でも、濱口は被災者支援を続け、広村の復興を成し遂げました。

(参考)内閣府「地区防災計画ガイドライン」

②小泉八雲による小説化と国語教科書への掲載

 1896年には、ギリシャ生まれの新聞記者で、後に東京帝国大学で教鞭をとったラフカディオ・ハーン(小泉八雲・1850~1904)が、1896年の明治三陸沖地震の津波被害にショックを受けて、濱口をモデルに英語小説「A Living God(生き神)」を書きました
 この小説の題名は、濱口存命中に、広村住民から、濱口の偉業を称えて神として祭りたいという話が出たことに影響を受けています(実際には、濱口はこの申出を固辞しています。)。また、小説の中では、濱口が稲むらに火をつけた理由を、村人に津波襲来を知らせるためという設定に変更しています(実際には、津波襲来後に、繰り返し襲ってくる津波に備えて、避難者に高台の安全な避難場所を知らせ、避難誘導するために稲むらに火をつけています。)。
 この小説を基に、濱口が創設した耐久中学校の卒業生で、小学校教員をしていた中井常蔵(1907~1994)が、戦前の小学校の国語の教材用に執筆したのが「稲むらの火」の物語です。
 この物語は、1937年から1947年まで小学校の国語の教材となっていましたが、戦後、占領軍による日本人の公徳心を養う記述を削除する方針により、教科書から除かれてしまいました。しかし、防災研究者をはじめとする有志の働きかけもあり、2011年に5年生の国語教科書「銀河」(光村図書出版)の中に「百年後のふるさとを守る」(河田惠昭京都大学名誉教授著)と題して、この「稲むらの火」の物語が再び取り上げられました。

③昭和南海地震での減災効果

 1946年12月21日の昭和南海地震では、広村を高さ4mの津波が襲いましたが、濱口が修造した広村堤防があったため、市街地は浸水の被害から守られました。また、避難する人は、道中の田の稲むらに火をつけて、安政の時と同じように、避難路を照らし出して、他の人の避難を助けました。そのため、減災に成功したと言われています(ただし、堤防の外側にあった紡績工場やその社宅が津波に襲われて、22人の住民が亡くなっています。)。
 地震後津波の来襲が早かったにもかかわらず被害が少なかった原因として、濱口の話が言い伝えられていて、住民が津波を警戒しており、災害に対する予備知識・心構えがあったことが指摘されています。なお、亡くなった22名中18名が紡績工場の関係者やその家族で、他の場所の出身者が多かったため、土地勘がなく、津波や避難の知識が少なったことが被災にも影響したのではないかと言われています。

(参考)気象庁HP「稲むらの火」

④津浪祭

 安政元年(1854年)の大津波から50年目に当たる1903年に大津波で犠牲になった人々の霊を慰め、広村堤防を築いた濱口らの遺業とその徳を偲ぶため、広村の有志によって津浪(つなみ)祭が行われるようになりました。現在は毎年11月5日(津波防災の日)に行われています。
 祭りでは、新たな土を堤防に入れて、堤防を補修する作業である「土盛り」が実施されてきましたが、現在は、住民等が、堤防に土をかけるだけの形式的なものになっています。
 祭りは、広八幡神社の宮司により、神事が行われ、祭りを通じて、津波の悲劇や教訓を後世に伝える仕組みになっています。なお、現在も当該神社は津波避難場所に指定されており、11月5日に子供たちや住民と一緒に大規模な避難訓練等を実施しています。
 2015年に国連は、この「稲むらの火」に因んで、11月5日を「世界津波の日」にしました。

(参考)和歌山県HP


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