9.18

ここ二週間くらい日記が書けていなくて、そうすると、処理しきれなかった日々の感情とか、ぐるぐる考えていた思考めいたものが、降り積もって、ちょっと身体のスペースを圧迫してしまう感じがあるので、やっぱり、定期的に書かないとなあと思う。自分の、心身の健康のためにも。

というわけで、久々にパソコンから書いている、けれど、なんだか落ち着かない。ちょっと改まった文章になっちゃいそうな気がして、キーボードからだと。

ここ一週間くらいは、心身ともに調子が悪くて、たぶん生理前だからだろうけれど、妊娠出産を経て「生理前には体調が悪くなる」ということをかれこれ一年半くらいはしてなかったわけだから、え、こんなに不調になるっけ?と戸惑っている。決定的な何かがあるわけではないんだけれど、気分がずーんと塞ぎ込み、あと腰痛とか背中の痛みとか、なんだか風邪っぽい。免疫力が落ちるのか、唇や口内が荒れまくる。

いったいどうやって乗り切っていたのかすっかり忘れてしまったのだけれど、たぶん、台風がきたときに、ひたすらじっと、嵐が過ぎ去るのを待つように、していたんだと思う。新たな予定はなるべく入れず、なるべくペースを落とし、後でできることは後回しにし、本を注文するとか、ゲームを再開するとか、昔読んでいた本を再読するとか、そういう、ささやかな楽しみを取っておく。じっと、通り過ぎるのを待つ。

今年もまた保活の季節がやってくるので気が重い。けれど、やれることはやったし、あとは、人事を尽くして天命を待つというか、縁なんだろうな、と、自分に言い聞かせて、気持ちを落ち着かせようとしている。

そもそも、自分たちが良いと思った保育園が実際にその保育園に通う子どもにとって「良い」のかどうかはまた別で、このあたりになんというか親の恣意性、子育ての恣意性、教育の恣意性、みたいなのを感じる。一方で、子どもにとって無限の選択肢(可能性)を与えてあげられるわけではないんだなあと(当たり前なんだけれど改めて)痛感し、でも、与えられた環境の中で適応して育っていく子どものタフさや生命力にも驚嘆する。

どうせ(保育園)を選べないなら、いろいろ見学して選択して考えてって無駄なんじゃないかって、日々疲れてるから、そう思ったりもするんだけれど、でも一方でやっぱり、なんでもそうなんだけれど、たとえ同じ結果になったとしても、一度は自分で見て考えてから、そのときどきの選択をしていきたいなと思う。

自分の職場や仕事選び、就職するかしないか、結婚するかしないか、出産するかしないか、子どもの学校をどうするか、とか、私たちは選べるようで選べないときがあるし、選んだところで今回の保活のようにその希望が100%叶う保証がないときもあるけれど、それでも私は、なぜそれを選ぶのか、と、見て考えた上で、選択したいなと思う。結果は同じでも、その後の何かにつながりそうな(新たな縁に結びついていく)気がするから。

プルーストを読む生活2を買って、読んでいたら、ああ私もやっぱり日記を書きたいなと思って、筆を取った。

最近、SNSとかいろんなアカウントを整理していて、ツイッターも休止して、メインをnoteだけにすることにした。とはいえ、noteもユーザー数がどんどん増えて少し自分にとっては賑やかすぎる気もするので、やっぱりオウンドメディアというと大袈裟だけれど、「つながりのすくない」、自分の静かな場所を持っておきたいなと思った。mono.coto Japanをどのようにしていくか、と思ったけれど、そういう静かな場所として、続けてとっておきたいな、と思った。

「成功する」には、いろいろ「得る」というのが正解なんだけれど、日々を穏やかに、幸せを感じやすくするには、いろいろ「手放して」いくのが大事なんだなと、最近ひしひし実感している。

それでは、また。

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