見出し画像

8.18

今朝は眠いので、ふとんのなかでうだうだしながら書いています。

先日、古本屋で買った、コロナ禍の日記の本を寝る前に読んでいて、2020年の、最初の緊急事態宣言のころから始まるので、自然とそのころのことを思い出しています。

日記で書かれているコロナ禍に比べて、わたしは当時、そこまで停滞している感や、重苦しい感じ、さびしさとかを感じてなかったように感じたのですが、それはいまこの、コロナにわたしも周囲も社会も慣れた状態で振り返るからそう思うのかもしれないし、それとも実際に当時、わたしはありがたい状況にいたのかもしれません。

ひとつ言えるのは、コロナによって生活がそこまで変わらなかったことが大きく、というのもその数ヶ月前に子どもが生まれてそっちの方がはるかに変化が大きかったんですね。どのみちずっと、子どもが小さいから家にいたし、むしろ、当時26、7歳で、こどもがいる友だちはひとりもおらず、自分だけが自由に出かけられず子どもの世話に明け暮れている、という、知り合いより早く子育てを始めた淋しさ、が当時はあったので、むしろ、コロナになってまわりも社会も出かけられない、という状況は、自分だけじゃない、と、逆に淋しくなくなった感じがありました。

コロナになる前からずっと在宅で仕事をしてたんですが、それもなんだか仕事をしてるようなしてないような、という感じでいまいち自信めいたものが持てなかったんだけど、コロナでリモートワークが普及して、同じ在宅で仕事をするにしても、前より気持ち的に楽になったというか、家で堂々と仕事していいんだ、という気持ちになり、これも楽になりました。

最初の緊急事態宣言中は、近くに住む母は完全に仕事がやすみになり、毎日子どもを見てくれていたので、わたしは逆に仕事を続けられて、子どもに関わる人が増えたので、子どもとふたりっきり、という煮詰まり感、も減ったのでした。夕方になると毎日、近所をベビーカーを押しながら3人で1時間くらい散歩していたのを覚えています。今日は1丁目、明日は2丁目、明後日は3丁目、と順々に散歩して、当時はあつ森にどハマりしてたので、おうちのお庭とか壁とか塀の感じとか、そういうのをみては参考にしてました。

とこのあたりまで書いて子どもが起きたのでいったんこのへんにして続きはまた今度書こうと思います。

それでは、また。


サポートありがとうございます。みなさまからの好き、サポート、コメントやシェアが書き続ける励みになっています。