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8.20

休みの日だけど早く起きてみて達成感をしみじみ感じていたら子どもも1時間くらい早く起きてきて早起きした意味…となっている朝です。昨夜は夜更かししてバチェロレッテミニを見ていたので眠く、もうすでに早く昼寝したいなあという気分でいます。

前回、2年前の緊急事態宣言のころの話を書いていたのですが、子どもが小さくて健康面での不安を抱えつつ、でも、あれが妊娠中だったり、出産を控えていたり、生後すぐのまだ首もすわらない、ふにゃふにゃの時期だったら、もっと不安だったんじゃないかな、と振り返ると思ったりします。

夫も転職したてだったけど最初から完全在宅で、仕事が終わったらすぐお風呂に入れてくれたり、仕事の合間にお味噌汁つくってくれたりしていたので、子育て世帯にとって在宅勤務はありがたいなあとしみじみ感じてたのでした。

もちろんいまでも、保育園が休園になったり、濃厚接触者になっても病院にかかれなかったり、熱出すたびにひやひやしたりとコロナによって大変になったこと、もあるけれど、コロナによる変化で楽になった部分もあり、苦手だった大人数の飲み会がそもそもひらかれなかったり、断りやすかったり、オンライン上の非同期なコミュニケーションが前より認められるようになったり、そういう、自分にとってはプラスの変化も確実にあるので、「早くもとの日常に」とか、「以前のような生活」というのは違和感があるというか、完全に以前のように戻りたいかと言われれば、そんなことないなあと感じています。

もとの日常、ってなんだろうなあ。コロナ禍を0歳でスタートした子どもにとってはコロナ以降の生活がすべてというか彼にとってのスタンダードだし、このままマスク生活が何年も何年も続いたら、外で顔をさらすこと自体に恥ずかしさを感じるような、平安貴族の女性が、顔を晒さなかったように、わたしたちの、身体をどこまで晒すか晒さないかという意識も変わってくるかもしれないし、ほんとう、日常、ってなんだろうな、と思います。いま生活している、自分やまわりの状況、そのときの時代や社会の状況そのものが否応なく日常になるのであり、好む、好まざるに関わらず、そうした状況の変化を丸ごと無視して、なにかを取り戻そうとしたり、なにかをまるっと変えようとする、というのは、少なくともわたしにとってはむしろ生きづらくなる生活態度なのかなあ、とぼんやりと考えています。

自分にとってよかったな、と思える変化があれば、それはそれで、コロナが終わっても続けられれば嬉しいし、そういうのが認められる(たとえば、希望する人は在宅勤務を続けられる体制や文化に変えていくとか)社会になればいいなあと思っています。

それでは、また。


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