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少しずつ積み重ねて、

妊娠37週目に入って、もういつ生まれても大丈夫、になった。切迫早産で入院したときはこの日が目標だったなあ。あのころはあんなに遠く感じたけれど、妊娠生活全体を通してみればあっという間だった。いつ生まれるのかとわくわく、そわそわ、どきどき。しばらくぼおっとした頭で過ごしてたけど、再び心配し始める。

妊娠がわかっても子どもを授かったという感じがピンと来てなくて、ああお腹に赤ちゃんがいるんだ、私おかあさんになるんだ、と実感し始めたのは、つわりが終わって安定期に入り、胎動を感じ始めたときだった。それまでは、つわりで妊娠しているという自覚はあっても、自分に子どもがいてそれゆえ親になる、という感覚はそんなになかった。妊娠初期の流産率は10%くらい、と聞いても、特に心配することなく、まあそうなったら仕方ない、くらいで考えていた。今思うと不思議なのだけれど。

それが、つわりが終わって胎動を感じはじめ、ニックネームで呼びかけたり、名前を考えたり、性別がわかったりするうちに、あれよあれよというまに愛着が湧いてくる。かわいくて仕方ないし、この子に何かあったらどうしよう、と心配するようにもなった。道を歩くときは自転車に気をつけるようになった。赤信号で横断歩道を渡らなくなった。階段は手すりを持つようになった。小さなことだけれど、こうしたささいな変化を積み重ねて、私は徐々に、お腹の赤ちゃんに対する愛着と、親になるんだという自覚をも、少しずつではあるけれど、積み重ねてきたんだと思う。

よく、「愛は育てるもの」と聞くけれど、いまいちぴんと来てなかったけれど、妊娠生活を経てぼんやりと、その輪郭が掴めてきた気がする。と同時に、夫婦とか、パートナー関係もそうなんだな、と実感するようにもなってきた。仕事が変わっても、家族構成が変わっても、なんだか調子が悪くても、そうした自分たちや環境の変化を受け入れながら、互いをも受け入れていく、っていうのは、「愛を育てること」と言えるんじゃないか。

ああ、なんだか難しいなあ、と思いつつ、すぐになんでもかんでも難しく考えがちなので、「まあとりあえず、今日一日を自分が機嫌よく過ごせるようにしよ」くらいでいいような気もする。自分自身への愛、も、育てていくものなのかもしれない。

それでは、また。

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