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日々、何かを書くとしたら、

名も知らない誰かの、毎日の日記が読みたいなあと最近思う。noteで#日記のハッシュタグを見たり。別に特別なことが書かれてなくても全然よくって、日々何時に起きたとか、何をつくって食べたとか、今日はここ掃除したとか、そういう生活のにおいがほのかに漂ってきそうな、そういうのが読みたい気分。

家にいると、引越したばかりなのもあってか、ああここの食器とここの食器の収納入れ替えたいなとか、ゴミ箱の位置はここだなとか、そんなささいなことが気になってくる。今はできないなあというジレンマを感じつつ。

入院中の方がある意味よっぽど集中して文章書けたな...たしかに、漫画家や作家が「ホテルに缶詰め」というのはよく知られてるけれど、入院もそれと同じようなものなのかもしれない。宅配は来ないし、掃除しようにもする場所がないし、片付けるべきものもない。先生の回診や面会がなければ、看護師さん以外会うべき人もいない。

役に立つ文章や、エモい文章の方が読まれやすいということは頭ではわかっているんだけれど、結局いつもこういう、たんたんとした、それでいて役に立たないものばかり書いてしまう。でもウェブ上のテキストが、すべて「意味のある」文章で埋め尽くされてるのを考えるとぞっとする。「意味」で埋め尽くされた文章や人生や社会ほど、息苦しいものはない。

まあ毎日書いたりするんだったら、これくらいのテンションの、意味があるんだかないんだかわからないくらいのものが私にはちょうどいいのかもしれない。毎日食べるなら結局白ごはんと味の薄いお味噌汁、のように。もしかしたら日々書いていくなかで「意味」も生まれてくるのかもしれないけれど、それは続けていってあとから振り返って生まれているものなんだろうなあ、というのをなんとなく直感で感じている。

それでは、また。


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