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散文的な日常、詩的な日常

この三週間くらい忙しかったので、今週はその間に溜まりにたまった会社のもろもろ、一言でまとめると雑務、を片っ端から片付ける。レシートを集め、整理し、会計ソフトに入力し、振込み手続きをし、税金を払い、社会保険、生命保険関係の手続きをし、その書類を整理し。面倒だけど、誰かが期日までにやらなくてはいけない業務である。

そういうのばかりやってると、なんだか無性に小説が読みたくなってくる。ああ、こないだ買ったサリンジャーのナインストーリーズの続きが読みたい...!とひたすら思いながら、間違えたらすぐ電話がかかってきてしかも修正に時間のかかる手続き書類に目を通し記入していった。「散文的な日常」という言葉がふと脳裏をかすめる。まさにそうだなあと思いつつ、果たして「詩的な日常」というものはあり得るんかな、あり得るとしたらどういうものだろうとぼんやり考える。

「散文的な日常」に疲れると無性に小説が読みたくなるのは、そんな毎日への反動であり、頭(と身体を)「ここではないどこか」へ飛ばしたいからだろうけれど、そんなことをしなくても日々の生活で「詩的な日常」を実践することはできそうである。心がけ次第なのか、気持ち次第なのか、内容次第なのかはわからないけれど。毎日ちょっとずつピアノ弾いたり、コーヒー入れたり、花に水をやったり、お茶を点てたり、短歌を書いたりというのが私のぱっと思う「詩的な日常」である。忙しいとこういうちょっとしたことがおろそかになるから、「散文的な日常」になる。

ところで小説というのは散文でもあるから小説を読んで「詩的な日常」にする、というのは言葉としては違うよなあ。とかどうでもいいことを考えていたらやっとだいたい溜まっていた作業が片付いた。

それでは、また。

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