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3.17

去年は何したかな、と、一年前の3月の日記をnoteで遡ってみたら、春の雨が好き、と書いていて、ああそうだなあ、と思い出した。春の、ぽつぽつ降る雨は落ち着く。日差し、こんな強かったっけ、と、驚くような快晴の日も好きで、それだけで幸せな気持ちになる。

このあいだあつ森(のyoutuberさん)のライブ配信を流していたら、「とても落ち込むことがありましたが配信見て元気になりました」っていうコメントが読み上げられていて、それに対して配信者さんが「時間が解決してくれる」という内容を答えてて(こんな言い方じゃないけど)、その数日後にふと、確かに、嬉しいことも(プラス)悲しいことも(マイナス)時間がならす(0に近づける)とするならば、「幸せに生きたい」という人生全体にかかる願いに対しては、「毎日少しずつ、ちょっとの幸せを感じる」というやり方は(少なくとも私にとっては)非常に理にかなっているなあと思ったのだった。

例えば、1ヶ月前のとても楽しかった旅行を思い出すことと、その日、大好きなパン屋のお気に入りのクッキーを食べるのとでは、その日自分に与える幸福度としては、後者の方が大きい(可能性が高い)ということだ。

とするならば、「今苦しい時間を続け、ご褒美として将来に大きな喜び楽しみを置いていく」より、日々の悲しみ、苦しみを生む行為はなるべく減らし、小さな喜び、楽しみを毎日用意しておく、方が、「私が感じる幸福の総量(和)」は大きいのではないか。みたいなことを思ったのだった。

これまで、「将来の大きな喜びより日々の小さな楽しみが大事」という考えに対して個人的にはいいなと思っていたけれど、「時間はプラスマイナスの感情を0にする作用がある」とするならば、確かに「将来の大きな喜びより日々の小さな楽しみが大事」というのは理にかなっているなあ、と、よく言われてることなので、別にだらだら書く内容というほどのものでもないのだけど、ふと自分の中でふに落ちたのだった。

だから私は、仕事や生活(結婚や家事や育児)をする上で意思決定の機会が出てくるときは、「日々の苦しみを少しでも減らし、日々の喜びを少しでも増やす」方向で、つまり、「しばらく苦しそうだけど後々のリターンが大きそう」な方向ではない方を選ぼう、ふに落ちたのだった。

昼、ミートソースのトースト。夜、角煮とネギのチャーハン、味噌汁。カレーせん。

それでは、また。


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