苦しいならいつでも「好き」をやめてくれていい
「達観した」と思っていたけれど、今度こそ本当に、とんでもない境地まで到達してしまったような気がする。
今まであんまりいい恋愛をしてこなかったけれど、ある人に対して「この人じゃないと嫌だな」って思うようになってから、しんどいことがたくさんあった。
前みたいに他の人にフラーッと行くことも出来なくなったし、自分よりも相手の幸せを願うようになって、その分1人で寂しい思いをする時間が増えた。
多分あの人も私を好きだろうなっていう不思議な確信もあったけど、好きだからってホイホイ行動できない人であることも、私と会うと逆に辛くなるらしいことも、分かってた。
辛い思いをするよりも、元気で幸せでいて欲しかった。きっと相手も同じように思ってくれてるんだろうなっていうことも、何となく根拠なく伝わってくるような気がしてた。
だから、会えなくても連絡が取れなくても、「私に会うことが辛いなら別に会えなくてもいいや」って思った。嘘偽りなく、本当に心の底からそう思った。
この時も「達観した!」と思ったけどね(笑)。
今思えばその本心とは別に、「もーーー会いたいし話したいし一緒に笑いたい!だって大好きすぎるもん!私のこと好きじゃないの!?好きなら会えばいいじゃん!」って言いたい気持ちも同じくらいあった(笑)。
「どうせそんなに好きじゃないでしょ」
「どうせ離れていくんでしょ」
「どうせ他に大切な人ができるでしょ」
みたいな、拗ねるような気持ちもあった。
つまり、やっぱり自己犠牲的な気持ちがあったんだ。
「私は会いたいと思ってるけど、それが彼にとって苦痛なら仕方がない。彼の幸せを優先するために、私の幸せは我慢すればいい」って思ってたみたいだった。
でもそうじゃなくて、私は彼に会えても会えなくても、十分1人で今幸せなんだ。だから別に会えても会えなくてもどっちでもいいや。そりゃー会いたいと時はあるけどねって、今度こそ本気でそう思った。
この時も「達観した!」と思った(2回め)。
そして今。
さらに深いレベルまで辿り着いてしまったらしい。
私を好きでいるのが苦しいなら、
いつでも「好き」をやめてくれていい。
私に会うのが辛いなら会えなくていい。
連絡がしんどいなら連絡もなくてもいい。
他に大切な人が出来るなら、
その大切な人もあの人の一部。
あの人を好きでいることは、
選択も感情も尊重することで、
周りの環境や人全てを含めて尊重すること。
だからいつでも「好き」をやめてくれていいし、
離れていってくれてもいい。
あの人の感情も行動も、本当にもう関係ない。
関係なく私は幸せだから。
・・・強がりでも何でもなく、今はそう思っている。
昨日の瞑想中にこんなイメージが降って来て、また「達観した」と思った(3回目)。これ以上深いレベルってあるんだろうか。あるかもしれないけど、とりあえず相当深い所に到達したのは確かだと思うんだ。
ここまで来るために、今まで相当の感情と向き合って来た。途中で何度も「もう嫌だやめる!」って思ったし、「まだあるの!?」「キリがない!」「底が見えない!」と思った。投げ出して逃げようとしたこともある。
でも今なら言える。
「底はあるよ」と。
そりゃー感情は次々湧いて来るし、ここまで達観してもやっぱり「会いたい!」「寂しい!」って思って泣く日もあると思うよ。大好きだからね。
でもそれは浮かんで消える雲のようなもので、もう怖くない。今寝転んで雲を見上げれいる場所は、いつだって平和だ。
ここに到達できたこと。
きっと私はこの場所を知るために今世の生を授かって、そのためにご縁をいただいた相手だったのかもしれないなって、今は何となく思う。
来世かその先か、いつかの世で人生をともにすることもあるでしょう。
その日まで、私は今世に与えられた残りの人生をかけて、お役割を果たす修行をしよう。今世の命をかけてお役割を果たそう。そのための大切な学びをさせてもらったのだから。
・・・って、今は自然と思ってる。
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