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幼い頃の「勘違い」は、凄まじいものがある。

 いつだったか、幼い頃に、祖父母から「一日一善」という言葉を教わった。その瞬間、元気者だった筆者が悪さをして、明日から「一日一膳」しかご飯が食べられないのではないかと肝を冷やし、凹んだことがあった。

 育ち盛りのガキは食欲旺盛で、祖父母の言うことなど聞く耳を持たず、幼稚園から戻り、外に飛び出せば、日が暮れようが、夕餉の時間に遅れようが知ったことではない。よって、厳しい罰が与えられたと勘違いしたのである。

 今の時代では、両親も祖父母も、ご飯一粒でも喧しく言う人は少ないと思われるが、当時は、ご飯一粒でもお茶碗に残すものなら、「お百姓さんが一所懸命に育てた米を大切にしないと、罰が当たる!」と叱責されたものだ。

 人間とは面白いもので、一度、勘違いをして頭の中に絵面が浮かぶと、何故かその絵面が記憶として深く刻まれてしまう。今でも「一日一善」という言葉を耳にすると、有田焼の小さなご飯茶碗に大盛りの白ごはんが頭に浮んでしまう。

 それから社会人となり、筆者としては「一日一善」を積極的に遣わず、「積善之余慶」という言葉を遣うようにした。しかし、「一日一善」という言葉を聞けば、体調が悪くてもご飯が飛び出し食欲をそそるのだから、実に有難いものである。

 幼い頃の「勘違い」は数限りなくあるけれども、本日は、「一日一善」という言葉をご紹介した次第。

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