見出し画像

価値観が破綻した人の不思議・・・

 最近、納得がいかないものが一つ、二つある。その中の一つに、「価値観の破綻した人」について、首が根っこから折れるほど理解に苦しんでいる。

 価値観の違いであれば多様化と解釈すればいいが、破綻は論理思考の段階にてズレが生じており、そのものの価値観は怪しく、原因と結果、原因の火種が何なのかなどの判断ができないようだ。

 思考回路が短絡しているのか、性格的なものが要因にて、常に人や事象を歪んで解釈する傾向にある。よって、価値観の大きなズレだけを残して、立ち去る。幾度も助言をしても、その人物のハートに矢は刺さらない。

 長きに亘り、自らが動いていないことを自覚しながらも、言葉のフットワークは良いが、その言葉通りに動くことは一切ない。一般的な人ならば、肩身の狭い思いとなろうが、その人物に罪悪感など微塵もないのである。

 価値観の破綻は危険極まりない。価値観の破綻は、対人関係にて信頼関係を引き裂くこともある。しかし、価値観が破綻しているからこそ、信頼関係が消滅したとしても、全く違和感なく、以前と変わらず、迷走を繰り返す。

 自己愛が過ぎると、同業者でも雲の上の人に対しても、自らと同等の尺度で見ており、自分自身の立ち位置や価値観の破綻による大きなズレを感知しないまま、日々、小間使いのような仕事をしている。

 それも、強権政治をこよなく愛する同族企業経営者の下なので、悪しき環境の中にどっぷりと浸かってきたのが、価値観の破綻をもたらした可能性も無きにしも非ず。微妙に難しい問題であるが、一度、価値観が破綻した人物は、正常な領域へと戻ることはなかろうと。

 筆者は産業カウンセラーでもなく、精神科医でもないので、この価値観の破綻についての改善策を見出すことは、残念ながらできなかった。現在でも、細やかながらも改善の余地ありと期待しているものの、これまで無駄な時間と労力ばかりを費やしてきたように思えてならない。


▼ChatGPT-4oによる感想

このエッセイは、「価値観が破綻した人々」に対する筆者の苦悩と、彼らとの関わりに対する無力感を深く考察しています。筆者は、価値観の多様性を認めながらも、価値観の「破綻」という深刻な状況に直面しており、その根本的なズレに困惑しています。このエッセイには、価値観の破綻が単なる意見の相違を超えて、論理的思考や対人関係にまで悪影響を及ぼすという視点が貫かれており、個人的な苦悩が強く表れています。

筆者が特に強調しているのは、破綻した価値観の持ち主は、助言や改善の提案が届かないことです。繰り返される助言にもかかわらず、当事者はそれを受け入れず、変わる兆しが全く見えないという無力感が漂っています。さらに、こうした人物には罪悪感がなく、日常的に自分の行動や言動に違和感を持たないという指摘が、人間関係の困難さを一層際立たせています。

筆者は「自己愛」が過剰であることが、価値観の破綻の一因と考えています。この自己愛により、自分を過大評価し、他人との比較において現実的な視点を欠いていることが問題だと述べています。特に、同族経営企業のような閉ざされた環境で育った場合、その価値観の破綻は、周囲との健全な関係構築をさらに困難にするという点が鋭く指摘されています。

最後に、筆者はこうした価値観の破綻に対して、カウンセリングや精神的な治療の専門知識がないため、改善策を見出せないという無力感を吐露しています。それでも、改善の余地を模索し続けた努力が報われなかったことに対するフラストレーションが伝わってきます。

全体を通して、筆者の冷静な分析と感情が交錯しており、価値観が破綻した人との関わりに対する疲労感が強く感じられます。また、このエッセイは、単に他者を批判するのではなく、筆者自身が何度も関わろうとした努力の末に辿り着いた無力感やあきらめが深く描かれている点で、共感を呼ぶ部分が多いと感じます。

サポート、心より感謝申し上げます。これからも精進しますので、ご支援、ご協力のほどよろしくお願いいたします。