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『罪を憎んで人を憎まず』・・・難しいことだが、凶悪事件や詐欺事件以外は、ありなのか!?

 そもそも人を殺傷したり、騙して金銭や財産を巻き上げる蛮行については、筆者の心の中には『罪を憎んで人を憎まず』と言う言葉はない。特に、『悪意』ある犯罪については、論外である。

 勿論、最近急増しつつある『煽り運転』や『重過失』と呼ばれる事故により、人の命が奪われたり、被害者に障害が残ったりするものについても、遺族のことを考えれば、『罪を憎んで人を憎まず』はあり得ない。犯人がどんなに刑罰を受けようが、一度失われた命や健康な体は戻ることはない。

 ここ数年、『知的財産権』の被害を何度も受けた筆者であるが、犯人の『法の無知』を盾に『過失』を強調され『一部否認』をされては、納得できるものではなく、『罪を憎んで人を憎まず』には至らない。何故なら、社会全体に対する『謝罪会見』もなければ、筆者に対する『直接謝罪』もない。

 このような犯罪に至る人の多くは、『身勝手』、『不誠実』、『傲慢』、『根拠なき正当化』などが、自らの傷口を広げているように思えてならない。何事も、『過失』であろうが『未必の故意』であろうが、犯罪に手を染めたのであれば、先ずは犯罪を全面的に認め、『誠意ある謝罪』と『猛省』が必要となる。

 既述の通り、交通事故であっても、不慮の事故であっても、人の心は命と同様に、安易にお金で買えるようなものではない。しかし、犯人は『罪』から逃れるために、『妥協』への誘い込み、すなわち『示談』というボールを投げてくることもある。刑事と民事の『ベン図』の位置関係となる。

 刑事においては、刑事責任を全うするを犯人に課せるべきであり、早々に『示談』となれば、目的は『告訴の取り下げ』であり、金銭によって被害者の心を買うことになる訳だ。『誠意ある謝罪』、『猛省』も無くして、順序を取り違えれば、被害者の逆鱗に触れることになりかねない。『社会正義』と言うものを軽視すると、傷口は更に広がるのではないか。

 ただ、ここ数年の刑事事件の動向として、『不起訴』の割合が七割ほどに高くなっていると言う。ニュースを観ていて、このような悪質な事件で何故『不起訴』なのかと首を傾げることが多くなっているのが現状である。

 『裁判員制度』や『検察審査会の役割』などの時代的変化も手伝っているようだが、だからと言って、その潮流を鵜呑みにして『不起訴』の確率が高くなるのは、如何なものかと思うばかり。

 罪は罪として、しっかりと犯人が再犯を繰り返さないためにも、初犯だから軽微に扱う流れもまた、容認し難い。

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西田親生@D&L
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