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「気がすむまで往生際悪くうだうだした」体感と気がすんだ時の「憑き物が落ちた感」

「どうやってタバコをやめたの?」
先日久しぶりにあったの友人のYにそう聞かれた。

私は、20代〜30代にかけてたばこを吸っていた。
多い時は1日に2箱、飲んだら3箱近くになることもあった。
原稿のお供に、お酒のお供に、誰かを待つ間、アイディアを考える間などなど
日常のあらゆるシーンでの必需品だった。
当時、私の周りでは非喫煙者よりも喫煙者のほうが圧倒的に多かった。お酒もそうだったけど、飲酒と喫煙はセットで当たり前みたいなノリだった。時代もあっただろうけれど、そういう人の多いコミュニティにいたということもあるだろう。

Yとはその頃からの付き合いだったので、私の喫煙時代も知っている。貰いタバコ仲間だ。Yはその頃から変わらず喫煙を続けていて今でも1日5本程度は吸っているという。

「ただねぇ、外出して吸う場所も限られているし、子供からもいつやめるの?って聞かれるしね。吸いにくいよね」
先日も、とあるお店の前にある喫煙スペース(お店の客専用の)の隣で自分の灰皿を出して吸っていたら、お店の人に「お客さんじゃない方の喫煙は困ります」と注意されたらしい。
お店にしてみたら、一人許すと、それが二人になり三人になりしていって人がたまると近隣問題になるということらしい。

「やめたほうがいいんだろうとは思うんだけどね。ちかはどうやってタバコをやめたの?ある日、すっぱりやめたよね」

いやいや、すっぱりはやめていない。「身体しんどいし、おいしくない」と思うようになって、まずは軽いタバコに変え、それでもやめられず、「備えよ常に」とばかりにカートン買いするのをやめ、それでもやめられず、無くなると早朝でも真夜中でも着替えてコンビニまで買いに行った。家にいる時は近隣のタバコ販売ポイントは知っているからまだいいけれど、これが旅行とか朝方までオールで流れ流れて飲んだ知らない街の朝4時に店を追い出され、同時にタバコもなくなる!なんてことが起きた日には、浮遊霊のようにコンビニを探して彷徨ったりもした。
そして、ある日の朝「買いに行くのめんどくさい。もういや_| ̄|○(←これってまだ使う?笑)」となって私の喫煙ライフは終焉を迎えた。
この間、5年くらいはかかっていたはず。

ただ、「もう、いや」となってからは、今に至るまで1本も吸っていないから、すっぱりやめたように見えるだけだ。心の動きだけをみれば「しんどいなぁ。おいしくないなぁ。でもなー、吸いたい。イライラするし、なんかタバコないのも不安。禁煙したらAちゃんみたいにイライラが募って周りに八つ当たりしまくりになるのも嫌だしなぁ。どうしよう、やめようかな。でもなー、でもなー」という繰り返しだった。
だから、軽くしたり、ストックしないでつど買うをやったり、往生際の悪いことをしていたわけだ。

そうやってのらりくらりと5年を過ごし、ある日、そういう自分の在り方とその在り方が見事に反映したライフスタイルに、心底嫌気がさしてやっと私の喫煙ライフは終わった。
感覚としては「もう、いいや」だった。つまり自分の心のぐるぐるに気が済んだわけである。気がすむまでに5年かかるってかなりのキレの悪さだ。恋愛うまくいかないはずだよなぁと思う(恋愛の話はまた違う機会に)。
女は決断が大事よ、マジで。

カウンセリングをしていると「でも、だって」を連発する人がいる。
「ああ、気が済んでないんだなぁ」と思う。喫煙時代の私と同じだ。

人は誰がなんと言おうと気がすむまでやり切らないとわからない時がある。
気が済んだらわかるのだ。
それがなくなっても、その彼と離れても、その評価がなくても、そのコミュニティの外にでても、そのお金を失っても、その仕事をしなくても大丈夫なんだということを。


だから、「でも、だって」と言い続ける人と出会った時は願う、時には祈る。
あの頃の私が禁煙するその時が来たように、その人にも「もう、いいや」が訪れることを。たとえ、その瞬間を私が知ることが叶わなかったとしても…だ。

誰かから言われたことが人生を考えることは多いけど、それは自分で考え自分で選択するきっかけである。自分が体験して初めて「わかる」ことのほうがはるかに多い。「気がすむ」ということも、自分にとっての体感であり経験だ。あの「気がすむまで往生際悪くうだうだした」体感と気がすんだ時の「憑き物が落ちた感」は、私の中に「迷い」が生じた時の指針だ。


「そういう意味では私はまだ気が済んでないな。私、たばこ、おいしいもん」
Yは私の話を聞いてそう言った。
「まぁ、やめられないだろうね、っていうか、ほんとはやめる気ないでしょ笑」
Yは「あはは」と笑った


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