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共感できなくても、理解するための努力はやめたくない

その人は子育て中のお母さんだったんですけど、「同じように子育てをしている人よりも、むしろ子育てをしていない人に助けられた」って話していたのが印象的だったんですよ。

あるウェビナーに参加して、話題が子育てだった時に、とっても印象に残ったお話について書いてみたい。

子育てにおける共感

私も6・3・1歳児を育てているけれど、同じように子育てをしている人は、出産・おむつ替え、授乳などを経験しているだろうから、子育てについて共有できることが多いような気がしてしまう。

でも、子どもの個性やその時の家族の状況はそれぞれなので(誰かの介護や夫が仕事でめっちゃ忙しい、家にいないとか)、子育てをしているという共通項があったとしても、全く同じ経験をしているわけではない。

だから、共有できることが多かったとしても、それが共感につながることもあれば、相手と自分を比較して辛いという状況も起こりうる。

ある人にとっては、子育ては愛おしい経験かもしれないし、まじでしんどかった!という想いの方が強い人もいるだろう。

違いを保ったまま、つながるために

冒頭の会話に話を戻そう。印象に残ったのは、なんというか話の内容に希望を感じたからだ。同じ境遇にいるからじゃなくて、違うからこそ助けあえること、同じ境遇にいる人よりもむしろ、同じ境遇にいない人に助けられたという話を実際に聞いたのは初めてだった。特に子育てに関しては。

あくまで私自身の感覚だけれど、日々の暮らしの中で、実際に子育てをしている人と、子どものいない人の間に距離を感じる場面がある。だから、その距離を感じさせない、「子どもがいる人もいない人もごちゃ混ぜな世界」の片鱗にふれられた感覚がして、とてもうれしかったのだ。

以前のnoteに書いたけれど、反共感論という本の中で、著者のブルームさんは、共感には2つの種類があると話す。

①情動的共感(あなたの苦しみをを私の苦しみのように苦しむ、ハートで共感する)
②認知的共感(あなたの苦痛を自分で感じることなしに頭で理解する→そういう目にあったら、そりゃ辛いでしょうと考えるけど、自分がはちっとも辛くない)

著者によると、情動的共感の方がより深く、より良い他者理解だとされているけれど、違いを保持したまま連帯するには、認知的共感があれば十分らしい。

共感は自分に近い者、自分と似た者に向けられやすく、共感してもらうことで、救われる時もある。けれど子育ては、実際に子どもを産み、育てている人たちだけででは到底できない。

子どもが病気の時、自分の体調が悪い時に仕事を代わってもらったり、普段自分の目が届かないとろこで悪いことをしている子どもを叱ってもらったり。子どもがいない人にも助けてもらって、なんとかやっていける。

子育てだけじゃない。それぞれの場で社会をつくっている人たちとの無数の見えない関係性の中で、私たちは生きている。

だからこそ、誰かや何かに共感はできなくても、気持ちや事情を理解するための努力はしたい。認知的共感(理解)があれば、違いを保ったまま、ゆるりとつながっていけると思うから。

企業でも社会でも、「多様性が大事」と言われ、「多様性」という言葉が独り歩きしているけれど、多様性の中身に触れた🙌と感じられる出来事でした。

\読んでくれてありがとうございます!/ 頂いたサポートは地域の中で使い、ご縁をぐるぐる回していきたいと思います。