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共感でつながる、とは言うけれど

ラジオで紹介されていて、気になった本を読んでいる。

普段ならこういったビジネス書ど真ん中なタイトルの本は手に取らないけれど、「なぜ、教養を身につける必要があるのか?」という問いに対する本書の答えがおもしろかったので、読み始めた。

読み始めると、教養もだけれど、なぜ勉強する必要があるのか?ということがていねいに書かれていて、とても読みやすいし理解しやすい。

共感でつながる、とは言うけれど

さて、私たちは共感が見えやすい社会に生きている。facebookを開けば、ある投稿に誰が共感しているか、何人共感しているかが分かる。共感はつながりのきっかけになったり、関係性を深めたりする。けれど、著者は共感で連帯しようとするのはやめたほうがいいと指摘する。

共感が道徳的行動を促すことがあるのは確かだが、共感によらなくても道徳的行動は可能であるということ、そして共感は逆にしばししば道徳的行動をじゃまするということだ。

本書の中で引用されている、ポール・ブルーム(「反共感論」)が紹介する例を見てみよう。

アメリカで起こったサンディフック小学校乱射事件(2012)では、犯人の家付近にある小学校で20人の児童と6人の大人が射殺されてしまった。その後、「子どもたちかわいそう」という感情にかられた過剰な慈善行為により、贈り物やおもちゃが次々と市に送られ、その整理のために、数百人のボランティアが必要になった。

ちなみにこの小学校はかなり裕福なコミュニティが暮らす地域にあり、この事件で亡くなった児童よりも、同じ年にシカゴで殺された(貧困地域の)児童の数の方が多い。寄付を送った人たちは、小学校の子どもや親たちに共感して行動を起こしたのだけれど、その結果はありがた迷惑的なものになってしまった・・・。

ポールさんは、共感のもつ問題点を4つ指摘する。

①共感は特定の個人に焦点を絞る。
②共感には先入観が反映されやすい。
③共感は自分に近い者、自分と似た者に向けられやすい。
④共感は視野が狭く数的感覚を欠いたものになりやすい。

共感には偏りがあって、視野が狭くなってしまう側面があるんだなあ。

違いを保ったまま連帯するには?

じゃあ、人はどうやって分断を乗り越えて、連帯していったらいいんだろう。

ブルームさんは、共感には2つのものが含まれていると言う。

情動的共感(あなたの苦しみをを私の苦しみのように苦しむ、ハートで共感する)
認知的共感(あなたの苦痛を自分で感じることなしに頭で理解する→そういう目にあったら、そりゃ辛いでしょうと考えるけど、自分がはちっとも辛くない)

情動的共感の方がより深く、より良い他者理解だとされているけれど、違いを保持したまま連帯するには、認知的共感があれば十分と著者は言う。同じように感じなくても、相手の心情をちゃんと理解することが大事なのだ。SSNSのいいねや♡は、情動的共感に近いような気がしている。

この2種類の共感の話は、以前書いたsymapathyとempathyの違いにも通じていると思う。

ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー」という本の中で、著者のブレイディみかこさんは、多様性を得るためには「シンパシー(sympathy)」ではなく「エンパシー(empathy)」こそが大切だと説いている。

みかこさんの息子さんは、empathyのことを「誰かの靴をはいてみること」と表現していたけれど、その姿勢がまさしく、認知的共感につながるんだと思う。

私はフライドポテトに塩しかつけないけど、マヨネーズを絶対つけたい人もいるよね。(オランダでは必ずついてくるらしい)そんな好みの自由が奪われたら、誰だって怒るよねって頭で理解できるだけで十分なのだ。

一方で、自分が時間をかけてじっくりと取り組んでいきたいことについては、情動的共感が必要な気がしている。その気持ちこそが、やりたいことを続けていくために必要な燃料になるから。

リアルタイムでいろんな共感に囲まれ、私自身もいろんな人やコトに共感しながら生きているけれど、価値観を押し付け合うのではなく、違いを保ったまま連帯していく方法を模索していきたいなあと思う今日この頃です。

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