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「文にあたる」を読んで

基本的には失敗しか形に残らない仕事がある。

本が出版される前にゲラ(校正刷り)と呼ばれている試し刷りを読み、内容の誤りを正し、不足な点を補ったりする、「校正」というお仕事だ。

冒頭でいう「失敗」とは、「誤植」のことだ。失敗すると誤植という形で本に刻まれ、100点満点の仕事をした時は、形として何も残らない。

この本は、校正を仕事としている牟田さんの仕事内容や仕事に向かう姿勢、心の叫びや祈りみたいなものが書かれた本だった。

言葉の使い方はこれで合っているのか?
まだ新しい言葉のようだけど、使っても大丈夫なのか?
ロンドン最大の~とあるけど、本当に最大なのか?

など、1つ1つていねいにチェックし、分からないことは調べていく。調べる内容は言葉に限らない。小説では断片的な描写を拾い集めて、間取りから道順、コンビニ展開(当時、四国にはセブンは本当にあったのか?など)まで描写に誤りがないかを調べていく。

牟田さんは、きっと誠実な方だと思う。

そう思わずにはいられないくらい、本に向き合うことの苦しさや、やりがいみたいなものがていねいに書かれていた。日常生活のいたるところで強い言葉が飛び交っている今だからこそ、簡単に言い切ることのない文章が心地よく感じ、安心する。こんなていねいな仕事をしている人がいるんだと。

校正とは内容の誤りを正す仕事である一方、書かれていないことを想像する仕事とも言える。著者が書かなかったことや敢えてその言葉を選んだ理由など、言葉の向こう側を何度も想像しながら、指摘するかどうかをじっくり考える。

しかし、どんなに考えても著者本人ではない以上、誤りとは言い切れない。全ての校正者がそうとは限らないけど、少なくとも牟田さんはそう考えているようだ。そして、「ここは〇〇ではないでしょうか?」と謙虚にえんぴつで、書き添えるのだ。日ごろのコミュニケーションも、こんな風にやりとりできたらどんなに優しい世界になるだろう。

一番印象に残っているのは、失敗についての文章かもしれない。牟田さんは、「校正とは常に失敗している仕事だとも言える」と話している。

自信は経験の蓄積で、拾えた経験が自信につながる。しかしこの自信とは、裏を返せば慢心です。
わたしは単純な人間なので、拾うと心のどこかで「やった」と思っているのです。せっせと拾ってはゲラを戻し、編集者に礼などいわれようものなら、自分はいい仕事をしたと思ってしまう。でも、試験と違って答案が返ってくるわけでなし、実際どれだけ拾えてどれだけ落としたのかは知らされないままです。だからほんとうは「拾えている」と思った瞬間に「拾えていないかもしれない」と思わなければいけない。

※誤植を見つけることを「拾う」、見逃してしまうことを「落とす」という。

完璧な仕事をすることなど不可能だと知りながら、次こそはと心に誓い新たなゲラに向かう。十年続けられた原動力は「次こそは」だったように思います。

一生懸命やって引きずらない失敗はない。でも失敗を引きずっていると、また「落としてしまう」から、忘れるしかない。誰にも一度や二度は経験のある葛藤を抱えながら、目の前の文章と向き合う姿には、とても励まされた。

私自身もフリーマガジンの編集をしている。校正している人たちは、どんな姿勢で、どんな気持ちで文章と向き合っているのか知りたくて読み始めたら、とても人間的な試行錯誤を繰り返し、想像のはるか上をいくてまひまがかけられていることが分かった。そして、ますます本が好きになった。

ぜひ、本が好きな人にたくさん読まれてほしい。

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