どうしてもっと怒らないの?

「どうしてみんなもっと怒らないのかなあ?」

西日本豪雨の後、そう話されていた方の一言がずーっと頭の中から離れず、新聞の書評欄に掲載されていた本を手に取ってみた。

1970年代、障害を持った人たちが理不尽な差別に対して怒り、身体を張って闘っていた。本の中では、「身体を張って街へ出て、社会を耕す。」と表現されている。当時は、ノンステップバスもバリアフリーのトイレもほとんどなければ、障害者に対する理解も今ほど進んではいなかった(昔に比べて)。
だから「街に出ること」や「街で生きること」は命を削りながらの闘いだったと思う。そうした闘いから、生きづらい「いま」を生き延びる術を学ぶ目的で作られたのがこの本だ。

無視されないために、怒る

怒らないと存在すら忘れられてしまいそうな経験を、私はしたことがない。だから感情をむき出しにして怒らずに、今まで生きてくることができた。「怒らずに生きる選択をすることができる環境」に恵まれていた、と言い換えてもいいのかもしれない。

障害者に限らず、マイノリティが差別について発言するときには、「怒っていると伝わらない」「言い方が悪い」と注意されることがあります。ですがむしろ青い芝の会はでは障害者が社会から排除されているからこそ、強引に主張する方法をとったのですね。

※青い芝の会:日本脳性マヒ者協会青い芝の会。障害者を殺した母親への減刑嘆願運動への反対、川崎バス闘争、養護学校義務化反対闘争などを牽引。

「保育園落ちた日本死ね!!!」のブログも、やり場のないこみ上げる怒りから生み出されたものだと思うし、普通の言い方では聞いてもらえないから、怒ったんだと思う。(本来はそういった声を掬い上げるのが政治だと思うんだけど・・・。)

私だって、怒りたいことがないわけでもないし、怒っていないわけでもない。いや、むしろ怒っているし、今の活動の原動力にもなっている。でもつい、この怒りのエネルギーをどう使ったら一番効果的・効率的なのだろう?と考えてしまうのだ。

そう考えられること自体、私自身がマジョリティな部分を持っているということだと思うし、当事者としての意識が低いと言われれば、言い返す言葉が見つからない。

(マジョリティかどうかって難しくて、障害を持っているかいないかでは、自分は障害を持っていないマジョリティと言えるし、高齢化社会の中では子育て世代はマイノリティになるのかもしれない、そして趣味に関しては・・・と、個人の中にも、マジョリティの自分とマイノリティの自分が存在する)

「怒り」と「憎悪」は違う

横田さんたちの「怒り」って、やっぱり共生のための「怒り」なんですね。「憎悪」じゃないんです。「憎悪」というのは、共生の拒絶です。相手の存在自体を否定する感情です。だから「憎悪」には葛藤がないんです。一方的に恨んで憎んで罵るだけですから。でも「怒り」には葛藤があります。嫌われるかもしれない、反撃されるかもしれないから怖いんです。でも、異なる事情を抱えた人間同士が生きていくためには、「それをやられたらダメだ」という一線があるわけです。それを守るためには怒らないといけないときがある。

※横田弘:日本脳性マヒ者協会青い芝の会に所属した運動家。障害者が車いすのままバスに乗ることを拒否した川崎市とバス会社への抗議(川崎バス闘争)など、一貫して脳性マヒ者の立場から、健全者社会へ鮮烈な批判を続けた。

きっと私には葛藤が足りないのだと思う。いや、葛藤を乗り越える力が、まだまだ弱いんだと思う。だから、こうした葛藤と向き合い、選挙に立候補した友人たちのことを心から尊敬している。

話を本に戻そう。最後に、心がざわざわしたテーマを目次から抜き出しておきたい。

・波風を立てないと、存在自体を無視される
・マジョリティの定義は、「大きい主語で自分を語れる」こと
・「善意」と闘うことは、「悪意」と闘うことより難しい
・「障害者」のほうが生きやすい社会?
・生きるために遠慮を強いる社会なんて気持ち悪い
・「私は私のために生きる」というエゴは大事
・尊厳ある死ではなく、生の真摯な肯定を

こんなに言葉の重みを噛み締めながら本を読んだのは久々だ。

絶望の先にたどりついた言葉や深い考察・葛藤から編み出された言葉は、SNSの世界で反射的に飛び交う言葉とはまるで違って、自分の薄っぺらさにちょっと愕然とした・・・。

そして、常に「あなたはどう思うの?」と問いかけられている気分になった。そのこたえはこれから先、じっくりと見つけていきたいと思う。


この記事が参加している募集

\読んでくれてありがとうございます!/ 頂いたサポートは地域の中で使い、ご縁をぐるぐる回していきたいと思います。