見出し画像

評価経済のその先へ|読書メモ:「チョンキンマンションのボスは知っている」

年始からすごい本を読んでしまった。きっかけはFBで見かけた、投稿だった。この本には、文化人類学者である著者が、香港にある個人住宅がメインの複合ビル(チョンキンマンション)のボスを名乗るタンザニア人男性、カマラさんに密着取材した内容が書かれている。


既存の制度に期待しない人々によるセーフティネット、信用システム、シェア経済とは。

本の帯を見て、すぐさま読みたいと思った。この本を読んで大きく2つの気づきがあったので、それについ書き留めておきたい。

評価経済社会について

ここ数年、「お金」よりも「評価」が価値を持つケースが増え、評価経済社会と言われている。お金より信用を稼げ、と言いたいことは分かる。

いきすぎた資本主義社会にモヤッとしている私には、「お金より信用が大事だ」と言われるとなんとなくしっくりくる気もする。一方で、フォロワー数=信用の大きさと考え、フォロワーの増やし方とかいう情報を見ると、そわそわするし、お金とあまり変わらないんじゃないかと思う。

そのモヤモヤをなんとなく言い当てていたのが、この本だった。著者は、評価経済社会について、信頼度の低い人を排除することで成り立つ社会と指摘する。スマホとインターネットさえあればSNSは利用できるから、評価経済社会は、それらを持っている人には誰にでも開かれているかのように見える。だが、違うのだ。

CMPFIREの家入さんもなめらかなお金がめぐる社会。で、次のように指摘している。

僕としては、評価経済の持つ可能性に惹かれる一方で、それがもたらす弊害も危惧している、評価経済においては先ほどのUberやAirbnbの話のように、評価が低い人からどんどん切られていってしまう事態が起きている。そして、近い将来、各社がもっている評価情報データベースが統合されていくのは確実だろう。(中略)そうなると、僕たちは何をするにも「いい人でい続けないといけない」という同調圧力が働く時代になっていくと思っていて、根はいい人なのに性格が素直じゃないとか、正義感が強すぎるあまり人と衝突することが多い人とかが、本当に生きづらい社会になるはずだ。

じゃあ、香港のタンザニア人は何が違うのか?彼らは評価の低い他者を排除する既存の評価システムを使わず、SNSがベースとなった独自のシステムTRUSTを活用する。(TRUSTの詳細については、ぜひ本を読んでほしいのだけれど、特定の運営企業や運営者はいない。)

TRUSTがフォーマルなフリマ/オークションサイトと異なる発想で作られている最たる点は、TRUSTが「信用できるブローカー/顧客」と「信用できないブローカー/顧客」を次第に明るみにしていくものではないことである。TRUSTでは相変わらず誰もが信用できるし誰も信頼できない世界・人間観が維持されており、それゆえに取引実績や資本規模、過去の失敗や裏切りにかかわらず、誰にもチャンスが回ってくる。

買い付けに向かうタクシーの車中でライブ中継したり、飲み会の写真を流したり。自身のSNSに、日々の暮らしと交えて中古車の売買情報を投稿することで、ビジネスを回しているのだ。遊びと仕事の間にも境目はない。

ネットサーフィンして仲間を笑わせることのできるコメディ動画を探すことや多くの仲間から賞賛される自撮り動画を流すことは「遊び」「楽しみ」であり、ついでに「仕事」にも活用しているだけで、「仕事」のためにネットサーフィンしたり、自撮り動画を流すことになったら、せっかくの楽しみがつまらなくて面倒くさい時間になってしまう。

香港に暮らすタンザニア人たちは、このようなシステムを活用しながら、独自の互助的社会を形成し、お金が無い仲間には住む場所と食べ物を与え、病気や不慮の事故で亡くなった場合はお金を出し合って、母国へ遺体を送る。

他者を「信頼できる相手」と「信頼できない相手」に仕分けるよりも、「誰も信頼できないし、状況によっては誰でも信頼できる」という観点に立って、それぞれが置かれた状況を推し量り、「ひとたび裏切られても状況が変われば誰でも信じてみることができる」やり方の方が、より健やかだし、人間らしく生きていけるように思った。

つながることについて 

詐欺に遭った時、最も役立つ情報を教えてくれるのは詐欺師の友人だ、とカラマは言う。

「誰が将来役に立つかなんてわからないさ。なぜなら未来は誰にもわからないからだ。成功したら大企業の経営者の仲間が大事になるかもしれない。だけど、逮捕されたら、囚人の仲間の方が大事になるだろう。日本に行く日が来たら、日本人の君に道案内お頼むだろうが、タイに行くことになるかもしれない。大切なのは仲間の数じゃない、(タイプのちがう)いろんあ仲間がいることだ。

カマラの人間関係は政府高官から大企業の社長、詐欺師に泥棒、元囚人まで多岐に渡る。 

彼らは意識していい人になろうとするのではなく、自分の仕事のついでに他者を助ける。

母国に残してきた家族への贈物を、偶然帰国する交易人に託して「ついで」に届けてもらう。資金がなくて香港に渡航できない者は、スーツケースのスペースに空きがある分だけ、交易人に自分に商品も「ついで」に仕入れてきてもらう。

この「誰かは助けてくれる」という信念は、「同胞に対して親切にすべきだ」という期待ではなく、それぞれの人間がもつ異なる可能性にギブ・アンド・テイクの機会を見いだす個々の「知恵」に賭けられている。

この無理しない「ついで」の論理が、開かれた互酬性を担保しているのだ。私の脳内イメージ図はこんな感じ。

画像1

いい人になろうとした時、主体は相手になるが、ついでの主体はあくまで自分だ。その方が生きやすそうだし、より現実の社会に近い。

長くなってしまったけど、しっくりくる社会の仕組みについてこれからも考えていきたいなと思います。

この記事が参加している募集

\読んでくれてありがとうございます!/ 頂いたサポートは地域の中で使い、ご縁をぐるぐる回していきたいと思います。