見出し画像

甘え上手と甘え下手

上の子をみていて思うのは、つくづく甘え下手だなあと言うことである。
それに引き換え下の子は甘えるのが上手いなあと思う。
 
甘え上手と甘え下手。一体なにが分けるのかと言えば、一重にその態度にある。
端的に言えば、甘え上手なひとは可愛がってもらおうとする態度をとる。一方甘え下手のひとはありのままの自分を受け入れろという態度をとるのだ。
 
ここに、甘え上手と甘え下手とで甘えることについての理解が異なることに気がつく。
つまり、甘え上手は相手が自分を可愛いと思ってくれるような行動を自らがするのである。ほら、わたしって可愛いでしょ、ぼくっていい子でしょという態度を見せることでまんまと相手がおお可愛い可愛いよしよしよしとなってしまうのである。作戦成功である。
 
しかしこれは決して計算高いということではない。甘え上手はWin-Winの関係を導いているといえるからだ。
 
さて、甘え下手のひとはといえば、この計算がわからない。
甘え下手はありのままの素の自分を受け入れてほしいと願う。ところがたいていの場合、素の自分というのはわがままであったり、どこかネガティブな要素があるものである。だから我々は社会的な仮面をつけて素を見せないようにしているわけであるが、甘え下手はその素も含めて受け入れてもらうことが甘えることだと勘違いしている。
 
これは先の例で言えば、Win-Loseの関係になる。例えば親が折れて甘やかしてくれればWin-Loseである。親は我慢しているからである。あるいは親が対応を拒否すればLose-Loseになる。
 
かわいがってほしければ可愛がられる態度をとりなさいと言えるのは甘え上手の言葉である。これはぼく自身も何度も言ってみたが、甘え下手のひとにはまるで外国語のように通じないのだ。
 
たしかに、ありのままの自分を受け入れてもらうことが甘えるということであるというのは一理ある。しかしそれは極めて一方的な一理である。問題はこうしたロジックが簡単に成立してしまうことで、甘え下手は自らの論理から逃れることができなくなることだ。
 
ぼくは時々言うのである。相手も人間なのだよと。親も感情のある人間なのだよと。しかしそれが理解されることはない。簡単にして強力な論理が感情を支配して、甘え上手の下の子をずるいと思う。そうじゃない、そういうことじゃない。意見は平行線を作り、延々と循環する。
 
先日上の子がぼくにこんなことを言った。
「おれがどんなに悪いことをしても嫌いって言わないでね」
 
甘え下手を象徴する言葉だと思った。
さて、どう回答したら正解だろうか。あなたならなんと答えるだろうか。

この記事が参加している募集

育児日記

もしよろしければサポートをお願いいたします!サポート費は今後の活動費として役立てたいと思います。