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【恋愛論】「付き合う」を本気で考える

先日、仲の良い異性の友達と「『恋人』と『仲の良い異性の友達』の違いは何か」という話になりました。
その友達は、同世代には存在しないくらい(というか私がまともに会話をしたことがある人間の中では)ダントツで言語化が上手で、そういう「答えのない問い」を、よく、ぐだぐだ喋っています。
私は「そもそも、○○とは」みたいな根本的で本質的な問いを立てるのが好きで、会話をしていてもやりがち。飲み会でこれをやると(私の導入が下手で唐突なこともあるけど)、苦笑いされることが多いので、こういう話を同じ温度でやってくれる友達は本当に貴重なのです。

「『恋人』と『仲の良い異性の友達』の違いは何か」と聞かれて、そのとき反射的に「明らかに違うな」と思った。
でも、パッと出てきた「性交渉の有無」だとか「独占欲を正当化できるか」というのは、本質的ではない気がして、そこからしばらく「うーーん、何だろう」と考えています。
もしかして、「明らかに違う」と思いたいだけで、別に違いはないのか?とも思ったりもしました。

答えはかなり遠い(根深い)気がして、普段から「恋愛」とか「結婚」とかモヤモヤ考えることも多いので、もうこの際、「25歳現在の恋愛論!」ということで、深めに、網羅的に、整理ながら考えてみたいと思います!
(最近、困ったらアウトプットをすることにしている。一定量のアウトプットをすると、インプットがするする出来るようになるという気付き。)

現代社会の恋愛マップ

それではまず、現代社会の恋愛って、こんな感じで進めることになってるよねマップを作りましたので、こちらをご覧ください。

「好き(LOVE)」を起点に単純化して考えることに主眼を置いています。付き合って好きになる場合、復縁等は省略しています。

私は、恋愛において、こういうレールみたいなのが存在すると感じるわけね。
それはまさに、人生において、「高校→大学(就活)→就職→結婚」というレールが存在するように。

「結婚」を押し付けるな!の風潮は、最近のメガトレンドだけど(私も激しく同調している)、「付き合う」を押し付けるな!は、日本だと、あまり聞かないよね。

「付き合う」とは何か

定義

恋愛において、避けて通れない「付き合う」とは、何を意味するのでしょうか。
何かを考えるときは、まずは定義ですよね!!!!
みんな大好き、新明解(第8版)に聞いてみましょう。

付き合う=〔利害関係は二の次にして〕互いに行き来したりして、親しい間柄を保つ。
恋人=その人の恋している相手。

新明解(第8版)

うーーーん、ちょっと解像度が低いぞ。
もうちょっと次元を下げて聞いてみよう。

=特定の相手に深い愛情をいだき、その存在が身近に感じられるときは、他のすべてを犠牲にしても惜しくないほどの満足感・充足感に酔って心が高揚する一方、破局を恐れての不安と焦燥にかられる心的状態。
好き=自分の感覚や感情に合うものとして心が引きつけられ、積極的に受け入れよう(接し続けよう)とする気持ちにさせられる様子だ。

新明解(第8版)

いいですね!さすが新明解さま、こういうのは得意ですよね!
まあただ、今回議論したい内容は、もっと制度的な、システマチックなお話なので、自分で要件と効果を考えてみるとしましょう。

要件(「申込みと承諾の存在」or「確認行為の存在」)

現代の日本において、付き合っていると言うためには、「好きです、付き合ってください!」「よろしくお願いします!」という、申込みと承諾か、
「ねえ、私たちって付き合ってるよね?」「うん、付き合ってるでしょ。」という、確認行為が必要だと思うのですよね。
というか、このどちらかがあれば、付き合ってる状態になる。

どこぞの小学校では、男女2人で一緒に帰ったら付き合ってることになる、って話を小説で読んだことがありまして(本当にありそうだよね)、そういう風習みたいなものは地域によるとしても、上の2つを要件と呼んで良いのではないでしょうか。

ということで、「付き合う」の要件は、「申込みと承諾の存在」又は「確認行為の存在」ですかね。

効果(①好き推認効、②二重交際の禁止、③性交渉等の禁止)

「付き合う」の効果については人によって違いそうですが、以下3つは共通認識かなあと考えました。

好き推認効:お互いに好き(LOVE)であることが推認される。

二重交際の禁止:お互い以外の人間と、交際が禁止される。

性交渉等の禁止:お互い以外の人間と、性交渉等をすることが禁止される。この「等」には、手をつなぐ、キスなんかの、性交渉未満の身体的接触行為や、異性と2人でご飯に行く行為が含まれることがある。特徴としては、「一般的に、恋人又は恋人になろうとする者とする行為」であることが挙げられる。

これらは、任意規定です。強行規定ではございませんので、2人の間で自由に契約内容を決めることができます。が、ほとんどの「付き合う」は、この効果を採用しているように思います。
私の経験した「付き合う」は、そうでしたかね。
そういえば、「浮気しても良いから、別れないで!」って言われたことがあるな。それは「③性交渉等の禁止の排除・例外条項の設置/契約内容の変更」になるんですかね。

「付き合う」ことの必要性

なぜ我々は、「好き」になれば当然のように「告白」を検討し、「付き合う」を選択するのでしょうか。

理由①:刷り込み

まずは、これですよね。
好きになったら、「付き合う」を目指し、「付き合う」が叶ったら、それが幸せだと考える、潜在意識/刷り込み。

巷のドラマ、映画、漫画はぜーんぶこれ。
「付き合う」ことを、恋のゴール、成就、成功と描きます。
大抵の場合、恋した主人公は、告白するか、気持ちを秘めるじゃないですか。
ここでいう「気持ちを秘める」ってのは、告白しないことであり、告白が裏にあり、つまり「付き合う」を非常に意識した行為・表現なんじゃないかと。

理由②:結婚の助走としての「付き合う」

我々の生きる社会の、公的な構成要素として「家族」というものがあり、それを維持するために「結婚」という制度があります。
「付き合う」をすれば、結局のところ、別れるか、結婚か、の2択になるわけで、「付き合う」と結婚は、ダイレクトに繋がっている。(そうじゃない選択をする人もいますが。)
結婚したい人も、まず「(結婚を前提に)お付き合いしましょう!」となるのが一般的ですよね。
この「付き合う」って制度は、結婚制度を維持したい側からすれば、かなり都合がいいのかも。
結婚制度を維持したい側ってのは、まあ政府とかもそうなんだろうけど、親世代とかの「結婚する選択をした人たち」が一番想定できますね。自分らの選択を、正当化したい人たち、といいますか。
(ちなみに、結婚のメリット、みたいなのは「結婚論」で後述します。)

【積み残し疑問(備忘)】
・「付き合う」制度はいつから始まったのか。
・「付き合う」制度みたいなのは自然発生するものなのか。(人間は1対1のつがいを作るのが自然なのか?)

理由③:社会的なメリット

これは、我々が「付き合う」を選択してしまう、メリットみたいな感じ。

・恋人がいることで、安心感・優越感を得られる。

安心感:(自分が許容できる母体の中で)「あなたが一番」と言ってくれる人のいる安心感。
ちょっと関連して、「モテそう」って万能の誉め言葉だと思うのね。外見、清潔感、コミュニケーション能力、距離感あたりを、まるっと褒めてることになるから。
ええっと、このあたりをまるっと認めて「あなたが一番!」と言ってくれる人のいる安心感、みたいな感じです。

優越感:それを対外的にアピールできることの優越感。
恋人がいない人は、「彼女ほしー!」って言ってるのが自然な感じがするよね。「恋人いらない」って言うと、強がっちゃってーってなりがち。

・「付き合う」は良いことだとされている

これは、安心感・優越感からくるものなのかなー。
相手にもよるけど、一般的に「恋人がいる」ことは、社会的な価値観として、ポジティブなものであると感じる。

・「付き合う」は社会的な信用に直結する。

どんな人でも「恋人がいます/いたことあります」と言われると、「こいつを一番」と言う(言っていた)人がいるのか~となるし、1対1の深い関係を築いている(築いたことがある/築く能力がある)みたいな保障になるので、周りからの評価は自然と上がると思う。(これは特に、「モテなさそう」な人で発揮する気が。)

それに、これから付き合う人に「長く付き合った恋人がいました」という場合の安心感ってすごくないですか?(心配や嫉妬側面があるものの。)

「付き合う」ことの弊害

続いて、なぜ私が「付き合う」制度に居心地の悪さを感じるのか。
「『付き合う』ことの弊害」、というよりは、「関係性に『付き合う』という名前を付けることで生じる、なんか嫌なこと」って方が正確かな。

そもそも、抽象的な言葉の危険性

そもそも私は「名前を付けること(レッテルを貼ること)/抽象的な言葉でくくること」に違和感や、問題意識を感じやすいというのがあります。

たとえば、ある人が、テレビで北陸の地震のニュースを見て、自身の経験とか、人からしてもらった親切とか、 色んなことを思い出して、何かに突き動かされて、1万円の募金をしたとしましょう。
それを見ていた人がその行為を「正義感の強い行為」と評価したとする。
その瞬間、一気に、何かが失われませんか?
その募金をした人は「正義感」と聞いて、なんとなくガッカリしてしまい、淡く光るきらめきのような感情が失われてしまう。そして、周りからは、そこにある微妙な色合いが見えなくなってしまうと思う。

だから、抽象的な言葉、使い古された言葉、過去や意味・評価を吸い過ぎている言葉を使うときは、本当に注意が必要なのだなぁと思う。
特に、自分や、他人の、大切な感情や行動に名前を付けるときは。
世の中にありふれた言葉は、取りこぼすもの、失うものが多すぎる。

弊害①:枠にはめられる感

そもそも、私は「枠にはめられているな」とか「レッテルを貼られたな」みたいな感覚を非常に嫌うので、伝統的価値観に、ことごとく対抗していくようなところはあります。

でもこの、「用意された枠にはめられる窮屈さ/嫌悪感」は、感じたことある人多いんじゃないかな。
たとえば、「彼氏がお会計払うべき」とか「彼女が料理作るべき」みたいな、「彼氏」とか「彼女」としての役割を要求されること。女らしさ、男らしさの要求が、恋人関係だと(自然と)強く出てきませんか??

同じ文脈で、「良い彼女」「良い彼氏」というテンプレが存在するのも非常に窮屈ですよねー。
なんか、「彼女」「彼氏」という同じくくりに入れることで、他に無数に存在する「彼女」やら「彼氏」なんかと比較されるような、自然と比較してしまうような気がする。

弊害②:選択肢の喪失

「付き合う」と、途端に「別れる」選択肢が、存在感強めに登場してくるじゃないですか。
冒頭の恋愛マップにも書きましたが、「付き合う」と、「結婚する」「関係を維持する」「別れる」の3択になっちゃうのではないかと。

本来、人間関係には、「親密さのグラデーション」があると思っていて。
友達ってそうじゃないですか。「仲良くなりたいな」とか「知りたいな」と思って、何度か会って、自己開示して、「もっと仲良くなりたいな」と思ったり、状況の変化に応じてちょっと距離を取ったり、みたいな。

世の中の恋人関係にだって、本来、たくさんのグラデーション、色の違いがあるはずじゃないですか。
そっちの「付き合う」と、こっちの「付き合う」は、密度や重要性が全然ちげーよ、って思いませんか??
普段当たり前に感じているグラデーションが「付き合う」という言葉を使うことによって、非常に見えにくくなるような。関係性の築き方が途端に制限されるような。選択肢が「関係を上手に維持する(結婚する)」or「別れる」というように、非常に制限されるような。そんな気がします。

弊害③:行為の義務化

「付き合う」と、どうしても、会うこと、連絡を取ることが義務化します。
義務とまでいかなくても、「したいからする」から、「したほうが良いな」とか「しなきゃいけない」になっていく。
それを「習慣」まで消化できるなら良いけど(そんな関係うらやましいけど、)遠距離恋愛多めの私としては、この義務化がいつも致命的です。

弊害④:行動の制限

「付き合う」と、どうしても、行動が制限されます。
(制限=禁止+自粛)
恋人以外の相手と、性行為をはじめとする身体的接触を制限されるだけでなく、そこには恋愛的な要素のない(ないと感じる)異性と2人で行くご飯なんかも制限されることがあるわけです。

異性の友達と2人でご飯に行きたいこと、当然にあります。
彼氏と友達は全く別の人格です。この男友達を、この女友達で埋められるみたいな、そういう代わりの効く関係では、もはやありません。また、複数人では深まらない話というものが、いくらでもあります。
そもそも、男か女かで友達というものを選んでいないので、恋愛感情を抜いた上で、異性と2人でご飯に行きたいこと (ご飯じゃなくても、膝を突き合わせて1対1で話したいこと)は、日常的に想定できるわけです。

ですが、悲しいことに、恋愛感情の有無は、確定的なものではないし、相手に恋愛感情があるかどうかなんて正直なところ分からないし、何より関係性なんて外からはほとんど分からないものです。
ですので、異性と2人でご飯に行く→相手が不安になるor不安になるかもしれないと思う→制限、という流れになりがちです。

弊害⑤:無意味ながっかり(「一般的な期待」が裏切られる感覚)

友達なら全く気にならないのに、恋人だと気になること。友達なら大きな感謝ができるのに、恋人だと「その程度?」となっちゃうこと、多い気がします。

世の中には、「恋人なんだから、当然これくらいはしてくれるだろう」という、一般的な期待のようなものがあります。(前述した「彼氏・彼女のテンプレ」ともいえる。)
たとえば、友達が、誕生日プレゼントに1万円のプレゼントをくれて、しかも蝋燭がパチパチいってるバースデープレートを出してくれたらどうですか?
「ええっこんなに高価なものを…、そして時間をかけて選んでくれたなんて…、サプライズまで…涙」と、強い感謝を覚えますよね。
さて、これが恋人ならどうでしょう。

「1万円程度のプレゼントか…」「〇〇は彼氏から、5万円するプレゼント貰ってたなぁ」「あ、このお店なんだ…」と、なりませんか?!

選ぶ側だってそうです。
「彼女 20代 誕生日 プレゼント 相場」なんて調べたことありませんか??
この「相場」という概念、これを「一般的な期待」と呼び、これがあらゆるところで登場することが問題だと、なんとなく嫌なのだと、そう思っているわけです。

結婚論~「結婚したいと思う?」~

唐突ですが、続いて結婚論です。
ここでは、「結婚したいと思う?」という、非常に日常的な、飲み会などでよく聞かれる質問に回答することを目標に、家族や結婚について考えていきます。

「家族」という社会保障

まず、家族ってすごいな、と最近すごく思います。
仕事を休むようになり、不安定な地位になって、ありがたさを強く感じています。
見返りを心配せずに頼れる人がいる、帰れる場所がある、無条件に肯定してくれる(多分)と思える人がいる、この安心感は半端ないです。
お金を借りようと思ったら、病気になって働けなくなったら、まず家族に言うだろうし、逆に、そんなことを家族に言われたら「どうにかしよう」と頑張るなあと思うわけです。
そんなわけで、家族(ないし、家族的な保障を与えあえる人)は、人生に必要なんだと考えます。

配偶者は「唯一選べる家族」

「家族を頼れる人ばかりじゃないよ!」という方、その通りだと思います。
「毒親」なんて言葉が流行っていますが、親や祖父母、兄弟は選べない。いわば、「先天的な家族」です。(養子制度とかは、後天的な家族ではありますが、話を単純化するために一旦置いておきます。)

先天的な家族の対象的な概念として、私たちが生きていく中で、獲得していく家族がいます。配偶者や、子供といった「後天的な家族」です。
その中でも、子供は選べないですよね、見た目や性格、性別すら選べないし、「ここだけは譲れない!」なんて要望は通らない。
そう考えると、現行制度の下では、唯一選べる家族が「配偶者」なわけです。

個人的な意見

そう考えると、1人で生きていくのはあまりにも不安だし、不安定なので、後天的な家族は欲しいなーと思う。

それでは、「結婚したいと思う?」という、非常に日常的な、飲み会などでよく聞かれる質問に回答してみましょう。

結論:結婚(※1)か、結婚と同じ効果のある何か(事実婚、パートナーシップみたいなもの)はしたい。(※2)
理由:安全・安心に暮らすために、人生のパートナー/社会保障としての後天的な家族が欲しい。現代社会でそれを叶えるには、結婚か、結婚に似た何か(事実婚でもパートナーシップみたいなものでも良いけど)という形に集約されそう。

※1:ただですね、これまでの人生で色んな押し付けに遭ったので「結婚」という用語に対して抵抗や拒絶があります。
※2:また、飲み会で「結婚したい」と言うと、デリカシーのない連中が「女の子は、そうだよねー」とか言ってきたりして、それがどうしてもムカつく(私を「女」という箱に雑に収納した後で、その箱を見下ろして喜んでいるように感じてしまう)ので、理由を順を追って説明できない場では、安易に「結婚したい」とは言わないことにしていますし、引き続きそうします。

【結婚論・積み残し疑問(備忘)】
・恋愛と結婚は切り離して考えるべきか。(恋愛感情が無くても「結婚」は可能なのか。/「異性」である必要があるのか。)
・社会保障としての家族は、「結婚」以外の方法では実現しないのか。

うーん、やはり結婚論は奥が深いな、問題が根深いというか。
ここは、また考えます。

では、「付き合わない」べきなのか?

もう、「付き合う」が恋愛のスタンダードすぎて、選択肢が「付き合わない」なのが、「付き合う」をしないこと、と裏返してしか考えられないのが、非常に悔しい。
結婚しない人が「結婚しない主義」みたいな、「結婚」という言葉を使ってしか自分の主義主張を伝えられないような。
社会主義を唱えたマルクスの後に出てきた学者が、マルクスを批判(もしくは肯定)することでしか自分の主義主張を表現することができなかったって聞いたことあるけど、なんかそんな感じ。

でもまあ仕方ないか。
私の今のレベルだと、問題提起は「付き合わない」べきなのか?になっちゃう。

そんで、「付き合わないべきか」を考える視点は、3つかなあと。
「現代社会」において「付き合わない」ことを選択して、①自分が納得できるのか、②相手が納得するのか、③良い関係性が築けるのか
非常に似通っているし、「自分が納得できるのか」を考えるには「良い関係性が築けるのか」が影響する、みたいな関係にある問いなので、まとめて論じていきたいと思います。

「シチュエーションシップ」というトレンド

まず、恋愛関係の多様さを語る上で、一番最初に思いつくのは、「シチュエーションシップ」という欧米のトレンド。
シチュエーションシップ(situationship)は、英オクスフォードが選んだ、2023年流行語の1つで、「正式に確立されているとはみなされない恋愛または性的関係」を意味するらしい。

なんかこれについて調べると、「辛くね?!」という日本人のコメントをよく見る。
たしかに、関係性が固定されないことによる辛い側面はあるのだろう。
そこに、自分じゃない、相手が信頼してくれるのか、安心してくれるのか、って問題もかぶさってくる。

平安時代の恋愛

あと、最近百人一首にはまっているので、平安時代の恋愛制度も少し検討しようかと思います。
平安時代では、男性が女性のもとに3日間続けて通うと結婚成立とされたそうです。
男性が訪れなくなったらそれが離婚となるという、かなり、あいまいなルールだったんですね。
恋の歌が異常に多い(100首中、43首が恋の歌)のですが、「相手の気持ちが分からない、そのうち変わっちゃうんじゃないか」みたいな趣旨の歌が結構多いなあと思うんです。
たとえばこの歌。

忘れじの 行く末までは かたければ
今日を限りの 命ともがな

儀同三司母

「いつまでも忘れないとは言っても、将来のことは分からないから、一番幸せな今死にたい」みたいな意味。
こういう歌が多いなあって思う。

分かんなくなってきた

分かんなくなってきた。
なんか、制度が曖昧だと、気持ちが離れたら関係の終わり、みたいなところがあって、それって、信頼関係をきちんと構築しない間は、心配だし、ちょっと不安で辛いカモ?!って思った。

しかし、この「安心感」に関しては、付き合ったとしても、いつ別れを告げられる(いきなり飛ばれる)かも分からないわけだし、安易に付き合うことにより、より良い異性に出会えなくなるみたいなデメリットもあるよね…。

うう、なんか、自分が何言ってるか分からなくなってきた。

恋愛における「理想の関係」とは

ちょっと考えすぎて分からなくなってきたので、一旦、初歩的な、「どんな関係性が理想~?!キャッキャッ」みたいな話をします。
まあ、恋愛における1対1の関係(これまで、「付き合う」と名前を付けていた関係)、どんなのが理想なの?ってことね。

①愛着理論で言うところの「安全基地」になってほしい
・長い時間をかけて、十分な信頼関係と、伝い合える(アサーションできる)関係を築きたい
・会ったり、連絡したりする理由は不要でありたい
・将来も一緒に居続けるんだろうな、みたいな安心感が(お互いに)ほしい
②ルールは2人で決めたい

ってかんじですかねー。

そう考えると、わたしの、個人的な「『恋人』と『仲の良い異性の友達』の違いは何か」に対する回答は、1.安全基地となり得るか。2.長く一緒にいるために、価値観の擦り合わせやルールの設定を積極的に行うか否か。なのかな。

結論

おそらく、結論を出すほど議論は熟していないのですが、今回は一旦ここまでにしたいと思います。
やはり、十分な信頼関係や、お互いの唯一無二感さえあれば、「付き合う」を採用しなくても良い関係は築けるし、むしろ「付き合う」を採用しない方が、オーダーメイドな関係が築きやすいのではないかと思いました。
オーダーメイドな関係が築けるなら、「付き合う」を採用したっていいのではないか、という意見がありそうですが、私たちは、「付き合う」を採用しながら「付き合う」の呪縛(上述したデメリット)から逃れられるような、そんなレベルにはないのではないかと思うのです。

ということで、結論です。

結論:「付き合う」は、取りこぼすものが多すぎる。デメリットの方が大きいのではないか。
個人的な願望:一度、「付き合う」という選択を採らずに(「付き合わない」で)恋愛的な1対1の関係性を築いてみたい。

ご意見、本当にたくさんお待ちしています。

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