見出し画像

「愛の言葉あつめ」の途中経過

村上春樹の『街とその不確かな壁』を読んで、非常に印象に残ったセリフ(手紙の一節)がある。

……それからもちろん、わたしにも手紙を書いて。とても読み切れないくらい長い手紙を書いて。お願い。

村上春樹『街とその不確かな壁』 p54

これは「わたし」が好きな男の子に宛てて書いた文章。この「わたし」の気持ちに、痛いほど共感した。なんとなく切なくて「足りない」という感覚が怖くて、量で圧倒して不安が生まれる隙がないほどに埋めてほしい。「痛いくらいに抱きしめて」なんてセリフと根っこにあるものは同じなんじゃないかと思う。それにしても「とても読み切れないくらい長い手紙」という言い回しが素敵だ。

私はこれを読みながら「あ、愛の言葉だ」と思った。「愛」の定義は自分の中でまだ定まっていないけれど、もがきながら求め合うのも「愛」なんじゃないかと、なんとなく思う。与えるだけが愛ではないのだと。

それで「愛の断片」を収集するのってなんか楽しいなぁと思って、そのうち自分にとっての「愛」が見えてきそうだなと思って、半年くらい前から「愛の言葉あつめ」をはじめた。いつの間にか三つ集まっていたので、いや半年やって三つかいという感じかもしれませんが、今日はその途中経過を発表したいと思います。


続いては、詩からの引用です。

……
命ならずっと無限だった、
きみが死にたくなったなら、私のことを好きになって。
傷つけないように私の瞳にふれるとき、
きみはきっと、はじめて泣くよ。

最果タヒ「指」より

こちらは、最果タヒさんの『さっきまでは薔薇だったぼく』という詩集に入っている「指」という詩からの引用です。

最果タヒさんのうたは、初見だと「???」となるものが多いのだけど、でも何回も読んでスッと入ってきたら、心のずっと奥まで落ちてきたりする。こちらのうたが、まさにそれ。

「きみが死にたくなったなら、私のことを好きになって。」って、すごくないですか。優しくて危うくて、なんだか切ない。でも「他人に優しくすること」が自分をどれだけ救うのか、教えてくれる。(ここからは完全に個人的な解釈を展開します。)

他人に優しくすることと、自分に優しくすること。他人を受け入れることと、自分を受け入れること。それらはいつもセットで、二つのメモリを少しずつ交互に動かすみたいに進んでいく。誰かを好きになって自分を許すことを知り、誰かを理解して自分を受け入れることを覚えていく

だいたいの場合、後者は前者よりも難しい。

「傷つけないように私の瞳に触れるとき」、きみは、自分の中に広がる世界を明るくあたたかい光で照らす方法を知るのだ。


三つ目は、大好きな映画「寝ても覚めても」から。

趣味が合うなと思っている友達がストーリーに載せていたのをきっかけに、半年くらい前に見た。その子は「スキャンダルがなかったらもっと早く見てたと思う。めっちゃ好きだった」というコメントを書いていた。私も完全に同意だな。一番好きな映画を聞かれたら、これを挙げるかも。この映画は本当にすごい。

心奪われたセリフに至る流れを、記憶に頼って説明していきます。

主人公 朝子(あさこ)は麦(バク)と運命的な恋に落ちる。麦は、何にも囚われなくて、なんとなく危うい雰囲気があって、すごく簡単に言うとLEVEL5億の沼。
出かけたまま帰って来ないかと思えば、夜明けにフラッと戻ってきて、心配する朝子に「ちゃんと朝ちゃんのところに戻ってくるから」みたいなことを言って抱きしめる。が、そのうちどこかへいなくなってしまう。

8年後、朝子は麦と同じ顔をした亮平に出会う。お互いに惹かれていき、長い時間をかけて愛を育んだところに、麦があらわれる。「朝ちゃん、迎えにきたよ」と。

朝子は迷わず麦の手を取ってしまうが、途中で我に帰り「亮平のところへ戻る」と言い出す。急いで亮平のもとへ向かう。

「寝ても覚めても」あらすじ|ちいむ編

再びあらわれた朝子に対して「帰れ!!!」と怒鳴る亮平。そんな亮平に対して、主人公 朝子が泣きながら言ったセリフがこちら。

亮平と、一緒に生きていきたい

「寝ても覚めても」朝子のセリフ

これを聞いたとき、グッと心臓のあたりを掴まれた気がした。なんて身勝手で、なんて切実で、なんて本質的な言葉なんだろう。

一緒に生きていきたい」って、純度が高くてすごく伝わる素敵な言葉だ。どんな感情であっても、誰かに心からそんなことを思えたら、それは愛のある人生だよな。


ここまで書いて気付いたのですけど、わたしは「切ない」感情に弱いらしい。

じゃあその「切ない」ってなんだろう。

むくむくと感情が湧いてきて、でもその感情を押しとどめなきゃいけなくて、感情が胸のあたりを反芻してどんどん増幅する、みたいなこと。ボールが壁にぶつかって暴れているみたいなこと。だから「切ない」と「胸が痛くなる」?

人を好きになって、どうしても好きになったときって、最後はその人が「他人」であることが苦しくなったりする。自分の外にあるから好きなんだけど、不確定要素があるから好きなんだけど、相手の中にある自分じゃない要素を切り落としたくなってしまうような。でもそんなこと口に出せなくて、気持ちを押しころして平然と爽やかに笑ったりする。これってすごく「切ない」感情だ。

うーんだから、一部なりとも表に出せない感情を抱えることで、感情が自分の制御を超えた場所で存在してしまうみたいなことなのかな。そんな内面と外面のちぐはぐさ、暴走する感情と、それを必死で抑える理性のせめぎ合いみたいなものを見ると「いいな」って、ときめきを覚える。

一つ目に引用した「とても読み切れないくらい長い手紙を書いて」という表現には、このギャップが垣間見えて、なんというか、いじらしい。

あれ、でも、どっちかというと「この状態になりたい」ではなく「(自分に対して)この状態になってほしい」って思っている。引かれるの覚悟で言ってみると、自分に対して切なくなってほしい。はて、これは承認欲求なのか?趣味の問題なのか、、?

知った顔をした人に「それって恋だよ」とか言われちゃうのかな。「動」が恋で「静」が愛だ説って最近よく聞くけど、あれ、全然納得できない。もっと文学的で鮮やかな言葉で愛を定義したい。

うーん、ちょっとこれから本腰を入れて「愛とは何か」を考えてみようかなぁ。どこから考えたら良いのか全然わからないので、みなさんも時間があったらぜひ一緒に考えてください、よろしくお願いします!!!

【つみのこし備忘】
・家族愛、友人愛の「愛」も同じように考えられるのか?同じに考えていいのか?
・親→子と、子→親の感情を同じ「愛」と呼んでいいのか?
・無機物に対する「愛」は存在する?
・太宰の「愛」とか引用したい

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?