『花束みたいな恋をした』を観たら、時計の針をずっとずっと見つめていたくなった話。
『花束みたいな恋をした』を観てきた。脚本が坂元裕二と聞いて、駆けつけた。主演は菅田将暉・有村架純ペアだ。どう転んでもいい作品になる要素しかない。
結果、私はこの作品にどうしようもなく絶望してしまった。大きな槍で心臓を串刺しにされたような、刺さって抜けない絶望感がある。
そんな心臓を貫通する槍の正体について、考えていきたいと思う。
まずは『花束みたいな恋をした』のあらすじについて、簡単に触れていきたい。
大学生の麦(菅田将暉)と絹(有村架純)は、ある日、終電を逃したことをきっかけに出会う。始発まで共に過ごす彼らは好きな音楽、漫画、作家などの共通点を見つけ、次第に惹かれ合っていく。
意気投合した二人は交際をはじめ、同棲に進んでいく中で就職活動を始める。それぞれが仕事を手にし、日々を送る中で、やがて二人の間にすれ違いが生じてくる。5年の月日を共にした麦と絹は、二人の未来について考えるようになるーーー。
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本作品を鑑賞後、どうしようもない絶望感に襲われた。
それは、あれほどドラマチックな出会いをした二人が、さらには驚くほどに共通の趣味がある二人が、5年という月日を共に過ごした二人が、最後は別々の道を選ぶことになるからだ。
私も高校生から大学生にかけて、いわゆるサブカルチャーにのめり込んでいた時期があった。
私にとってはそれらは紛れもないメインカルチャーなのだが、周りに共感してくれる人は少なかったのも事実だ。音楽や小説、映画、漫画にファッションなど、ありとあらゆる「私が好むもの」は、周りには馴染めていなかった。
つまり、私も「絹」と同じだった。
カラオケっぽいところに誘われて向かえば、GReeeeNのキセキが熱唱されているし、人数調整で飲みに誘われて向かえば、バンドTシャツにロンスカと一人だけ野暮ったい服装をしている。
だけどそれが「自分の好きなもの」だから仕方がなかった。それ以外を身につけることなど到底できなかったし、その文化圏から外れた人と恋に落ちるなんて、地球が反対に回っても絶対的に不可能だった。
だから、だ。
ジャックパーセルのスニーカーがお揃いの「麦」を、カラオケできのこ帝国のクノロスタシスを一緒に歌う「麦」を、今村夏子のピクニックを絶賛する「麦」を一生愛したいと思うに違いないのだ。私も「絹」も。
それが、うまくいかなくなる。
どれだけ好きなものが同じでも、長く生活を共にしているとすれ違いが生じる、という余りにもリアルな結末が、私を夢の世界から現実へと引っ張り出した。
恋愛はいつだってキラキラしていて、それが永遠に続くように思える。だけどそれは本当に一瞬でしかない。クロノスタシス、時計の針が一瞬だけ止まって見える現象のように、刹那にしか輝けないものだ、恋愛は。
趣味が同じで、考え方も似ていて、一緒にいてどれほど楽しい相手でも、一歩ずつ歩幅がズレていけば、最終的には別々の道を歩むことになる。
その衝撃が胸に刺さって、なかなか取れてくれない。
絶望的だ。そこまで理想的な相手が、ピッタリ自分に重なる相手がいたとしても、永遠に仕合わせでいることは不可能らしい。どうすればいいんだ。
『花束みたいな恋』とは、どんな恋か
映画鑑賞後にいつも考えることは、タイトルの意味だ。「花束みたいな恋」とは一体、どんな恋なのか。
花のように、咲いては散っていくような恋でもない。かと言って、お花畑のように、どこまでも広がり咲き誇る恋でもない。
花束を手にする時はどんな時か、考えてみた。
大抵は、人から貰う時だ。何かをお祝いされる時、サプライズされる時、誰かから花束を貰うことが多い。自分自身に花束を贈る奇特な人もいるかもしれないが、多くの人は花束=貰うもの、という認識で間違い無いだろう。
本作品においても、花束は確かに受け渡された。それは終電を逃して絹が麦を追いかけたあの夜、あるいは3回目のデートでスマホのカメラ越しに告白したあの夜。彼らはピリリと光る出会いを、確かにお互いに手渡し、受け取っていた。
さらに、麦と絹の間にはたくさんの共通の趣味がある。漫画や音楽、作家に映画、ファッションなど、全ての文化圏において彼らはピッタリと重なり合っている。たくさんの「好き」が束ねられた花束だ。
1本では花束とは言えない。何本もあって初めて束になる。二人が過ごした年月の数が、お互いを介して知り合った人の数が束ねられていく。
そうやって出来た「花束」はまさに、二人で歩んできた「日々の花束」なのだ。
しかし、花はいつか枯れてしまう。
もらった花束も、いつかは手放さなければならない。後ろめたさを感じながらも、捨てなければならないのだ。
捨てる必要はないよ、枯れてもいいよ、ずっと飾っていよう。ドライフラワーだって素敵じゃん。問題ないよ。
そう言い続けるのは簡単だ。
恋愛感情が無くなったって、別れる必要はないよ。結婚すればいいんだよ。子供と一緒にさ、3人か4人で手を繋いで歩こうよ。大丈夫、問題ないよ。
必死に二人の未来を繋ごうと説得する麦に、絹は静かに首を振る。
この先に続くラストシーンで、脚本家・坂元裕二の成せる技を見た気がした。行きつけのファミレスで向かい合って座る彼らは、自分たちの行く末について、何も話さない。
しかし、後ろの席からカップルの言葉が聞こえてくる。かつての自分たちのようにライブで知り合い、共通の趣味を見つけ、意気投合していく若いカップルの会話が、麦と絹の耳に飛び込んでくる。
昔の自分たちを見ているようで、涙を流す麦と絹。二人にとって一番大事な「別れよう」という一言を使わず、他人カップルの、それでいて間違いなく「麦と絹」たち本人のでもある言葉を使って、物語を締め括る。
誰しも他人を介さないと、自分を見ることは出来ない。鏡のように。自分自身を見ようとするとき、鏡がないと自分を見ることは不可能なのだ。
初々しく距離を縮めていく二人を見て、麦と絹はもう昔のようには戻れないことを悟る。泣いている絹をそっと抱き寄せる麦。二人の恋は、キスで始まり、ハグで終わった。
好きとは、相手と一つになること
恋愛感情がなくったって、結婚して家族になればずっと関係性が続けられる、と麦は言った。
確かに、その通りだと思う。
不確かな感情で揺れ動く恋愛よりも、どっしりとして確実で逃げ場のなくなる家族になった方が、いくばくか関係性も構築されるだろう。
そう考えると、恋愛ってなんだろう。人を好きになるって、一体なんだろう。
映画を見終わった後、夜ご飯を食べた。
映画から夜ご飯までのプランを、大学時代から続く大切な友人と共にした。二人で映画の感想を言い合ったり、大学時代の話に花を咲かせたり、これからの話をしたりなど語り尽くすうちに、すっかり喉が渇いてしまった。
そばにあるコップの水を一気に飲み干す。
世の中にはいろんな飲み物があるけれど、やっぱり美味しいと思うのは水だと思う。
「どうして水が一番美味しく感じるんだろうね」と友人に訊くと、彼女は答えた。「体の中で最も多いのは水だから、人間の体は水で出来ているから」
なるほど。
麦と絹も、私たちも、みんな、自分とピッタリ1つになれる物を探している。それが見つかった時、どうしようもなく心地いいのだ。渇いた喉を潤す水のように、まるで自分の一部と感じられる存在。
もしかすると、好きっていうのも「水」のように「自分とピッタリ1つになれること」なのかもしれない。
恋愛というのは刹那的なものだ。クロノスタシス、時計の針が止まって見える現象のようなもの。
常に、前へと進んでいる。止まり続けることは出来ない。
何かを終わらせないようにするなんて、私たちには出来ないのかもしれない。いつだって何かが始まった時にはもう、終わりに向かっているから。
せめて。
せめて、その終わりに向かっている間、よそ見をしないで、今、この瞬間を、止まっている針を、ずっとずっと見つめていたい。
クロノスタシス。時計の針が止まって見えている間、幸せを噛み締めていたい。ずっと、ずっと。
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