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油屋の従業員は「はたらく」ことに、意味を見出せているのだろうか。

最近『千と千尋の神隠し』に夢中になっている。

本作品は言わずとも知れた、スタジオジブリ制作の世界に誇るアニメーション映画だ。日本において、いまだ興行収入第一位という記録を保持している。

主人公・千尋は引越しの途中、両親と共に不思議な世界に迷い込む。そこは神様が疲れを癒しに来る「温泉宿」だった。
仕事を持たないものは、魔女である湯婆婆によって動物に変えられてしまう。千尋は名前を奪われつつも、油屋で働く事になった。
自身の名前を取り戻し元の世界に戻る為、千尋は様々な困難に立ち向かっていく。

※本記事は『千と千尋の神隠し』に関してネタバレ前提で進めます。予めご了承ください。

本作品の名台詞はたくさんあるけれど、千尋が言う一番の名台詞は「ここで働かせてください」ではないだろうか。

魔女である湯婆婆が支配する「油屋」では、働かない者は動物に変えられてしまう。(豚となって食べられるか、鶏となって死ぬまで卵を産み続けるか)

千尋は「働かせてください」と経営者である湯婆婆に頼むものの、ものすごい勢いで拒否される。

それでも臆することなく、何度も何度も「働かせてください」「働きたいんです」と頼み込む。10歳にして圧迫面接に立ち向かい、ついには職を得るその屈強な精神は、やはり世界に称賛されるべき姿だった。

そうして千尋は契約書にサインをし、魔法によって名前を奪われる。「千」として油屋で働くことになったのだ。

そんな「油屋」に勤めるキャラクターのうち、私のお気に入りが二人いる。推し従業員と言ったところだろうか。

一人はリンだ。湯婆婆のところへ向かう千尋を、嫌々ながらも手助けしてあげる心優しいサバサバ女子である。後に千尋(千)の先輩として、業務の面でもサポートしてくれるいいヤツだ。職場にいたら毎日ランチに誘いたい。

そんなリンが退勤後、社員寮の廊下にて、千尋と差し入れのでっかいお饅頭を食べるシーンがある。雨が降って辺りは一面、どこまでも海が広がっているという幻想的なシーンだ。海の向こうに、街が見える。

「おれ、いつかあの街へ行くんだ、こんなところ絶対にやめてやる…」

リンは千尋に、自身の将来についてわずかだが、打ち明ける。リンにとって油屋で働くことは「未来への踏み台」でしかないのかも。と、私は感じ取った。

お給料(貰ってるのかは分からないけれど、そこまでブラック企業ではないだろう)を貰っても、きっと無駄遣いしないだろう。周りのナメクジ女先輩たちが化粧品やブランド品を買っている中、どこに出掛けるでもなく、何を買うでもなく、コツコツと貯金しているのだろうか。

自身が置かれている境遇に耐え、憧れの街へ思いを募らせるリンを想うと胸が苦しくなる。頑張って欲しい。送別会には呼んで欲しい。

自分が得たい「何か」の為に踏ん張るというのも、もしかしたら「働く」ということなのかもしれない。

二人目はみんな大好きハク様だ。ハクは湯婆婆の手下である。と同時に、「油屋」の現場を管理しているのもまたハクだ。

千尋が油屋に迷い込んだ時、人間が紛れ込んだと大騒ぎしていた油屋従業員は、必死の思いでハクを探す。ハクでなければ対応できない事態なのだろう。この若さで中間管理職とは、神様の世界も大変である。

ハクは湯婆婆の手下なので、早朝のお見送りや危険な仕事もNOとは言えない立場にいる。サービス残業、休日出勤は当たり前なのだ。かわいそうに。

ハクと千尋は、千尋が小さい頃にすでに出会っている。(当の千尋は覚えていないが)なので、ハクは千尋をこっそりと応援している。

一人で頑張る千尋を勇気付けようと、お手製のおむすびを差し出すシーンは何度見ても胸が張り裂けそうになる。普段はパン派の私を、米派に変えてしまうほどの威力。優しい。優しいですハク様!

実は、本作品におけるハク登場シーンは、意外と少ない。全部で何分くらいあるのか、今度計測してみようと思う。

だから、油屋におけるハクの働きっぷりは想像するしかない。と言っても普段から「ヤバイ仕事」をやらされているらしいハクは、現場にはあまり顔を出さないのかもしれない。

そもそもプライベートはどうなっているんだろう。油屋はサービス業ゆえ、シフト制だろう。お休みの日、ハク、何してるんだろう。どこか行くのかな。カフェで季節限定のフラペチーノでも飲むのだろうか。有給は積極的に取って欲しいと願うばかりだ。

ハクが何故そこまでして湯婆婆に仕えるのかというと、実は「とある志」が理由だった。しかし、湯婆婆はその熱意を利用するだけでなく、ハクを縛り付けて彼の自由を奪う。

「目標」があるからこそ人は頑張れるというのに、その「目標」をエサにされては身動きできなくなる。そこに発生するのは「労働」ではなく、ただの「搾取」だ。

搾り取られ、お金を稼ぐための駒になってしまうのが、果たして「働く」ということなんだろうか。

『千と千尋の神隠し』における名バイプレイヤーといえばカオナシだ。言葉を発することができず、周りの人を飲み込んで力を得ていく姿は、なんとも不気味である。

このカオナシ、実は「現代の若者」を象徴しているらしい。

自分は何もすることができないのに、色々持っている人に寄り添い、何かを得ようとする。何者かになりたいのに、何者にもなれない。

作り出した偽の金塊で、自分を強く、豊かに見せようとする。そんな虚栄に満ちたカオナシ。

私は、私自身をカオナシに重ねずにはいられない。

いつだって寂しいし、自分の力でお金を稼ぎたいし、もっと自分を必要として欲しい。なのに、できない。

だからつい、得意なことがある人、魅力的な人にくっ付いては、自分もさもそうであるかのように振舞う。しかし千尋に尋ねられると、答えられないのだ。

お家はどこ?お父さんやお母さん、いるんでしょう?好きなものは?テーマや世界観は?誰にも負けない得意なことって?即戦力になる自信はあるの?

答えることができず、自分自身に飲み込まれ、周りが見えずに暴走してしまう。それはカオナシのような、周囲を巻き込む暴走などではなく、暗く、重く、静かな、ひとりぼっちの戦いだ。

闇の中でもがき苦しむことしかできない。欲しい、欲しい、欲しがれ、と。

最終的にカオナシは、湯婆婆の双子である銭婆に「ここにいていい」と言われて居場所を見つける。糸を紡いだり、編み物をしたり、ケーキを作ったり。魔法じゃ何にもなんないから、あえて人の手で作り上げる。それが彼女の方針だ。

長い時間かけて作り上げたものが「これっぽっち」の対価にしかならないことなんて、いくらでもある。一生懸命、書いたのに。一生懸命、働いたのに。これなら、もっと便利な物を使えば良かった。もっと手を抜けば楽だった。だけど、それじゃあ、何にもならない。

私はずっと長い間「労働」は「対価が発生する物」だと思っていた。

しかし、そうでは無いのも事実だ。もっと貰えて良かったり、あるいは、思ったより貰えたりした出来事がたくさんあった。妥当な金額と言うのは、案外レアなケースなのかもしれない。

労働の対価というよりは、労働に対する「向き合い方」の方が、働くことの本質を突いているのかもしれない。少なくとも私にとっては、だけれど。

ところで、小学生が温泉宿で働くことの非現実性に目を向ける人は、どれくらいいるのだろうか。『若女将は小学生!』なんて作品があったことも、記憶に新しい。

自分自身の小学校ライフを振り返ってみても、小学生にとって「働く」というのは、ものすごく壮大なことに思える。

見ず知らずの世界にいるだけでも心細いのに、千尋はよく油屋で「働けた」なあと感心するのだ。

しかし、よくよく観察すると、千尋は完全には「働いて」いないことがわかる。それはあくまで、学校の掃除時間や、自宅でのお手伝いの延長に過ぎない。

人から言われたことを、とりあえずやる。よく意味は分からないけど、薬の札を貰って来いと言われたから、貰いに行く。お客様を案内しろと言われたから、案内する。

千尋はお客様に対して敬語が使えない。だめ!こんなにいらない!え?ちょっと待ってて!など、実際に接客で飛び出たらクレーム物だろう。

油屋において千尋だけは「働いて」いるのでは無い。単に「動いて」いるのだ。人に言われたことを、言われた通りにする。手を動かす、足を動かす。

それも仕方のないことだと思う。千尋は小学生だから、働くことの意味が分からない。千尋は仕方ないのかもしれないが、私たちの場合、そうでは無いだろう。

働くこと、ただ動くこと。その違いに気づけているか、今一度、自分に問いかける。

物語を通して、千尋は成長していく。

オクサレ様のトゲに気づく、龍がハクだと気づく、大切な人のために勇気を出して行動する、そういった成長が最後「両親はここにはいない」と千尋を決断させるのだ。

元の世界に戻るまで、千尋は自分の名前を守り続けた。名前を奪われるということ、すなわち、自身のアイデンティティを奪われること。

名前を奪われるのは何も、千尋だけでは無い。どこかに属し、そこのサービスや商品を提供する上で、個人の名前は重要では無い。

大事なのは「どこの従業員」であるか、ということ。私たちは一度会社に努めて仕舞えば、会社の外からは全く同じ存在にしか見られなくなる。まして、会社の内側でも「従業員」という括りでしかない。

どこにも私の名前など、存在しないのだ。

ただ人に言われて「動いて」いただけの千尋も、不思議な世界の中で「本質を見抜く力」を手に入れた。

宮崎駿監督は「千尋は生きる力を取り戻した。だから元の世界に戻ることができた」というコメントを残している。

本質を見抜く力、つまり、生きる力。

仕事を持たないと湯婆婆によって動物へと姿を変えられてしまうのは、きっと油屋だけの話では無いはずだ。

仕事というのは、世の中に必要とされているもの。

サービス業もそうだし、製造業もそうだし、家庭の中に蔓延している「生活」を整理することや、誰かに知識を与えること、誰かに癒しを与えることだって、必要とされれば仕事なのだ。

それがどのように求められているか。どうしたら、より満足されるか。それを考えることの中に、それを見出していく過程に、本当の意味での「働く」があるのでは無いだろうか。

私たちは人間だ。動物である以上に、人間なのだ。自らの手で「仕事」を作り出し、世界の誰かを支える。必要なものを見抜き、生きるために働く。誰かが生きるために、自分が生きるために。

動くという字に人を足すと、働くになる。私たちは、本質を見抜き、生きる力を手に入れることで、働くことができる。

その働きはきっと、世界の誰かを少しだけ幸せな気持ちにしているかもしれない。

全ての「働く」皆さんへ。

#はたらくってなんだろう

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