愛には、たっぷりの添加物が入っている。
私には、歳の離れた兄がいる。
そんな兄は、ペットボトルの飲み物を飲む度、いつも裏側のラベルをこれでもか!というくらい凝視していた。
何読んでるの?
そう尋ねると、ぶっきらぼうに答えが返ってきた。
「添加物。着色料とか、そういうの」
テンカブツ。
5歳の私には、全く想像もつかない言葉だった。兄を真似て、ラベルに書いてある文字を読んでみたものの、何ひとつ読めない。
隣から、相変わらずぶっきらぼうだが、どこか優しさを含んだ助けが入る。
一緒に読んでいくうちに分かったことが、ひとつだけあった。
ジュースは、ジュース以外のたくさんのもので、出来ているということ。
食卓にコトリと、湯呑みが2つ置かれる。私のは、少し、縁が欠けている。
一体、いつの間に欠けてしまったのだろう。知らない間に、唇を小さく切っていたかもしれない。滲む血を、お茶と一緒に飲み干していたのかもしれない。
この湯呑みに最も多く注がれるのは、彼の好きなジャスミンティーだ。
初めてお家に招かれた時も、彼はそのお茶を淹れてくれた。それはとても丁寧に、愛おしそうに。
兄の癖が移った私は、飲み物を手にするとつい、ラベルを読んでしまう。そして探すのだ。含まれている、添加物の数々を。
だけど、手のひらに包まれている湯呑みには、どこにも原材料が書かれていない。
一体、このお茶に含まれているものは、なんだろう。着色料は?保存料は?大量の添加物は含まれていないだろうか?
「添加物嫌い」である兄の教えを素直に吸収して育った私は、迷うことなく「添加物嫌い人間」になった。
コンビニのお弁当が、以前よりずっと栄養が見直され、美味しいものになったとしても、やはり気になるのは「添加物」である。
自身の経験を通じて「添加物ポリス」になったのではなく、そういった環境のもとでなってしまったのだから、添加物に嫌悪感を示すのは、ほとんど本能に近い。
もちろん、添加物にだって、いい面もある。
保存が効くし、見た目も良くなるし、味付けだって抑えられる。
それでも、だ。
分かってはいるのだけれど、どうしても「添加物は避けたい」と考えてしまう。
長く保存が効くことが、本当に必要なのだろうか?
ふわふわと見栄えよく膨らむことが、どうしても必要なのだろうか?
本来それに備わっている甘さだけじゃダメなのだろうか?
思うに、愛には、たっぷりの添加物が入っている。
「愛」っていうのは本当はもっと地味で、目立たなくて、彩りが悪いのかもしれない。
もっと薄くて、頼りないほどぺっしゃんこで、ふかふかさだって驚くほど足りないだろう。
さらに良くないことに、保存が全く効かない可能性だってある。賞味期限なんて、せいぜい1日かもしれない。
ところが、どうだ。
恋人になった途端、夫婦になった途端、パートナーになった途端。
そんな事実を隠すかのように、愛は突然、輝き出すし、ふかふかで心が弾むし、いつまでも日持ちし始めるのだ。
そしてそれが、本来持っている甘さで、輝きで、ふかふかさで、永遠のものと勘違いしてしまう。恋人、夫婦、パートナーという名前の添加物によって。
では、添加物の入っていない「愛」はあるのだろうか?
私はあると信じている。そしてそれは、この世界で「恋」という呼ばれ方をしている。
添加物の全く必要のない甘さと、輝きと、ふかふかさと、永遠が、それには最初から入っている。
要らないのだ。何ひとつ、要らない。
だけど、保存料が入っていないから、実際には「永遠」という訳にはいかない。
恋にも、消費期限はあるらしい。
あるいは、賞味期限が。
期限の切れた恋は、そのまま終わっていく。水分をゆっくりと蒸発させながら、鮮度を失って、静かに終わっていくのだ。
恋は、そのものの甘さや瑞々しさで成り立っている。
だけど、愛は違う。
愛は、愛以外のたくさんのもので、出来ている。
家族、環境、時間、お金、法律、欲求、試練。そんなものたちが「愛」を「愛」たらしめているのだろう。きっと。
添加物が嫌いな私は、果たして、愛を受け入れることができるのだろうか。
愛にも、原材料を示すラベルがあればいいのに。
そうすれば私は、その愛に含まれているものが何か、きちんと知ったうえで、愛を味わうことができるのに。たとえそれが毒だったとしても。
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