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愛には、たっぷりの添加物が入っている。

私には、7つ歳の離れた兄がいる。

そんな兄は、ペットボトルの飲み物を飲む度、いつも裏側のラベルをこれでもかというくらい凝視していた。

何読んでるの?

そう尋ねると、ぶっきらぼうに答えが返ってきた。

「添加物。着色料とか、そういうの」


テンカブツ。

5歳の私には、全く想像もつかない言葉だった。兄を真似て、ラベルに書いてある文字を読んでみたものの、何一つ読めない。

隣から、相変わらずぶっきらぼうだが、どこか優しさを帯びた助けが入る。

一緒に読んでいくうちに分かったことが、一つだけあった。


ジュースは、ジュース以外のたくさんのもので、出来ているということ。


食卓にコトリと、湯呑みが2つ置かれる。私のは、少し、縁が欠けている。

一体、いつの間に欠けてしまったのだろう。知らない間に、唇を小さく切っていたかもしれない。滲む血を、お茶と一緒に飲み干していたのかもしれない。


この湯呑みに最も多く注がれるのは、彼の好きなジャスミンティーだ。

初めてお家に招かれた時も、彼はそのお茶を淹れてくれた。それはとても丁寧に、愛おしそうに。


兄の癖が移った私は、飲み物を手にするとつい、ラベルを読んでしまう。そして探すのだ。含まれている、添加物の数々を。

だけど、手のひらに包まれている湯呑みには、どこにも原材料が書かれていない。

一体、このお茶に含まれているものは、なんだろう。



「添加物嫌い」である兄の教えを素直に吸収した私は、違うことなく「添加物嫌い人間」になった。

コンビニのお弁当が、以前よりずっと栄養が見直され、美味しいものになったとしても、やはり気になるのは「添加物」である。

自身の経験を通じて「添加物ポリス」になったのではなく、そういった環境のもとでなってしまったのだから、添加物に嫌悪感を示すのは、ほとんど本能に近い。


もちろん、いい面もある。

保存が効くし、見た目も良くなるし、味付けだって抑えられる。分かってはいるのだけれど、どうしても「避けたい」と考えてしまう。


本来それに備わっている甘さだけじゃ、ダメなのか?

長く持ち堪えることが、本当に必要なのか?

むくむくと見栄えよく膨らむことが、本当に、本当に必要なのか?


炭酸飲料の甘さに酔いしれるより、蜜たっぷりのリンゴを、シャクシャクと味わっていたい。

あるいは、ツツジの奥にある、秘密の蜜を。


思うに、愛は、添加物がたっぷり入っている。


本当はもっと、地味で、目立たなくて、彩りが悪いのかもしれない。そして、もっと薄くて、頼りないほどぺっしゃんこで、ふかふかさが足りない。さらに良くないことに、全然、保存が効かないのだ。消費期限なんて、持って3日かもしれない。


ところが、どうだ。

恋人になった途端、夫婦になった途端、パートナーになった途端。

そんな事実を隠すかのように、愛は突然、輝き出すし、ふかふかで心が弾むし、いつまでも長く持ち堪えるのだ。

そしてそれが、本来持っている「甘さ」で「輝き」で「ふかふかさ」で「永遠のもの」と勘違いしてしまう。恋人、夫婦、パートナーという名前の添加物によって。


では、添加物の入っていない「愛」はあるのだろうか?

もちろん、ある。


この世界で、それは「恋」という呼ばれ方をしている。

添加物の全く必要のない「甘さ」と「輝き」と「ふかふかさ」と「永遠」が、それには最初から入っている。


要らないのだ。何ひとつ、要らない。

全てが「恋」から滲み出ているし、溢れ出しているし、止まることを知らない。

だけど、保存料が入っていないから、実際には「永遠」という訳にはいかない。恋にも、消費期限はあるらしい。あるいは、賞味期限が。

期限の切れた恋は、そのまま終わっていく。水分をゆっくりと蒸発させながら、鮮度を失って、静かに終わっていくのだ。


恋は、そのものの甘さや瑞々しさで成り立っている。


だけど、愛は違う。

愛は、愛以外のたくさんのもので、出来ている。

家族、環境、時間、お金、法律、欲求、試練。そんなものたちが「愛」を「愛」たらしめているのだろう。きっと。


添加物が嫌いな私は、果たして、愛を受け入れることができるのだろうか。

愛にも、原材料を示すラベルがあればいいのに。


そうすれば私は、その愛に含まれているものが何か、きちんと知ったうえで、愛を味わうことができるのに。

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