植物も、人も。
植物と人と、似通った部分が多くあると思う。
草花にもそれぞれ“性格”のようなものがあり、意思を感じとることがたびたびある。
私は豆苗を育てている。
種から、ではなくただスーパーで買ったものを切って使った後、再度伸びるのを待っているだけである。
植物を見るのは好きだが、育てた事はほとんどない。
虫が脅威なのである。虫、という漢字を見るだけでも虫を想像してしまい、だめだ。
間近で植物が成長する過程を見てみると、植物の言葉が聞こえてきそうな気さえしてくる。
プライドが高いのか、誰よりも早く、背を伸ばすもの。
その隣でさっきのものほどではない背丈の、負けず嫌いそうな背比べをしているように見えるもの。
派手好きな、沢山葉をつけているもの。
のんびりと全く成長しないもの。
小学校の先生の様な気持ちになり、それぞれのペースで、生きていけばいいんだよ、と声をかけたくなる。
人も同じである。
しかし人はすぐ優劣をつけたがる性質がある。
そうして切磋琢磨して文明を築いてきた、という面の側面なのかもしれないが。
みんなそれぞれ違って良いのです、と言い聞かされつつも、テストや数値で優劣をつける事に終わりはない。
これだけは意識している事がある。
自分だけは自分の味方である、という事である。
自分の意思を自分が否定したり、無視したりすると、心は蝕まれ、輝きを失っていく。
優劣をつける社会の飲み込まれ、いわゆる他人軸で生きている人がいたら、どうか自分だけは、自分の内なる声、意思に耳を傾けてあげてほしい。
HSPの人は、人の感情を読み取ったり感じとったりすることに長けている。
それは社会生活を営むなかで、とても重要で大切な要素である。
なんにでも表と裏があるが、裏目にでてしまうケースとして、相手が望んでいる事、言ってほしい事が分かる為、自分の意見ではなく、“望まれている意見”を探すことに注力してしまう事がある。
それ自体を否定する気はないが、その奥にしまった自分の意思をないがしろにしてはいけない。
私自身も過去に自分の意思を殺し、意思を持たない相槌人形の様になってしまっていた時期があった。
随分と、自分を生きられるようになるまで時間がかかった。
社会的生活をするにあたり、表面上自分を偽る事があっても仕方のない事だとも思う。
矛盾甚だしい言い分だが、自分の本当の声に耳を澄ませ、そうだね、ホントはこう思うよね、と受け入れてあげる。
のんびりと伸びる植物を否定しないのと同じように。
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