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『躁鬱人』という"星"を見つけた話。




驚いた。
ほんっとうに、
びっっっっっっっくりした。


今この本に出逢っていなかったら、とおもうと、
この先の人生を想像してとても恐ろしい。
そのくらい、
出逢えて良かった本だった。
もし出逢わなければ、絶望だらけな人生だった。



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『躁鬱大学』という本を読んだ。
その名の通り、「躁鬱病」について書かれた本だ。
みなさんは、「躁鬱病」という言葉をご存知だろうか?
一回くらいは聞いたことがある人が多いかもしれない。
最近は、”双極性障害”と呼ばれることが多いようだけど、筆者の坂口恭平さんは、
「それじゃあなんのことだか分からないから」と、
本の中では徹底して躁鬱病の方で呼んでいる。
だから双極性障害という言葉が出てくるのは、それを話している最初の一行目だけ。(と、記憶している。)

一応検索すると一番上の厚生労働省のページには
{双極性障害では、ハイテンションで活動的な躁状態と、憂うつで無気力なうつ状態を繰り返します。躁状態になると、眠らなくても活発に活動する、次々にアイデアが浮かぶ、自分が偉大な人間だと感じられる、大きな買い物やギャンブルなどで散財するといったことがみられます。}
とかって書いてあった。https://onl.bz/NHt26LR
他のサイトも大体内容は同じ。




別に本の内容を説明したいわけでも、
躁鬱について説明したいわけでもない。
だから、
いわゆる本の感想記事や内容のまとめ記事のように読みやすくわかりやすいなんてことは一切無いであろうことだけ、先にお伝えしておきます。



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この本の何がすごいのかというと、
『躁鬱人である坂口さんがこの本を書いている』というところだとおもう。

躁鬱人(そううつじん)というのは、この本の中での躁鬱病の人の呼び名だ。
「躁鬱」というのは人間の一種の体質であって、病気では無いから、この世界は「躁鬱人」と「非躁鬱人」で構成されているという考え方からきている。

まずこの考え方に救われる人はすごく多いとおもう。
〇〇病なんて名前がつくと、ぎょうぎょうしくて、しかもなんだかたくさん薬をもらうもんだから本当に病気っぽい病気みたいに感じてしまう。
けれど、
「躁鬱病は病気というより一種の体質である」
と言い切ってもらえると、自分の性格のせいだとおもっていた特徴が躁鬱という体質のせいであったことがわかって、とても楽になる。

この本は、『神田橋語録』という
精神科医の神田橋條治さんが躁鬱病について口述したことを聞き書きした資料があって、それを主要テキストとして授業が進んでいく形式で書かれている。
躁鬱病が病気というよりも一種の体質であるという考え方も、この神田橋語録から来ている。




どこまで公表していいのか、どの範囲の人たちに言っていいことなのかわからないけれど、わからないから、じぶんのことだから、
はっきり話すとなにを隠そう
ちいは躁鬱病で、躁鬱人である。

これがちいにこの本がぶっ刺さった一番の理由であることは間違いない。
本を読んでいる間、興味と興奮が止まらなかった。
どうしてこの人はこんなにじぶんのことがわかるんだろう?
これってちいだけの個体の特徴じゃなかったの??
なんでこの人こんなにちいと一緒なんだろう。
そう思ってページをめくる手が止まらず、一気に読み上げた。
途中、
「どうしてこんなにじぶんのことがわかるんだろうと思っているでしょう?」
「なんだかみなさん読む速度上がっていませんか?」
と書いてあって、その通り過ぎて笑ってしまった。


本の中で坂口さんが言っていたように、
世の中には躁鬱病についての情報はあふれていて、薬もあるけれど、その中に“躁鬱人当人の言葉はほとんどない”。らしい。
非躁鬱人の人たちが書いた本や記事には、躁鬱人にどんな傾向があるのか、どんな症状が出ることがあるかは書いてあるけれど、「じゃあどうすればいいのか?」は全く書いていない。
正直、ちいはそこまでいろんな本を読んだり、めちゃくちゃ調べたりはしなかったから、はっきりとは知らなかったけれど、
「双極性障害ですね」と精神内科で診断されてからすぐくらいに少しは調べた。
その時も、双極性障害=躁鬱病というのもわりと後になってから知った気がするし、どのサイトも書いてあることがおんなじで、
「で、結局どうしたらよいのだ?」
というのは全くわからなかった。
“こういう症状が出ます。”
“こんな感じの気分になることがあります。”
“こんな行動に出る人もいるかもしれません。”
“薬はありますが効果は人によるし、どの薬が合うかも人によります。でもとにかく飲み続けなければなりません。”
診断されてから次の躁状態になった時に薬は飲まなくなったし(これも特徴として本の中に書いてあった)、それ以来病院にも行っていない。

そもそも、病院に行った時はPMS : 月経前症候群かなあと予想して行ったので(PMSという言葉もそのちょっと前に知った)、“双極性障害”なる言葉にもピンと来ていなかった。



じぶんだけではないけれど、
人はそれぞれいろんな特徴がめっちゃくちゃあって(それはそう)、そこに最近はなんだか名前がついていたりする。
ADHD、多動症、HSP、PMS、、などなどたくさんある。
ちいも、「ちいはこれっぽいよね」「これちいそうじゃない?」と周りの、特に近い存在の人たちが言ってくれたり、いろんな言葉が出てきて目にして特徴を見て、「この気質は少しありそうだな」とじぶんで思ったりしていろんな要素を少しずつ知っていった気がしていたけれど、
どれもそんな感じはするし納得はできても、
なんというか、
“ど真ん中ではない感”があった。

円グラフを想像してもらうとすこしわかりやすくて、
ADHDも多動症もHSPもPMSも、おそらく数%〜10数%を占めている気はするのだけど、何かもっと大きく何10%も持っているやつがいる気がする、、、
という根拠のない気持ちがうすぼんやりとあった。
じぶんを占めている一番大きい部分が空欄になっているような感覚。
それ自体もうすぼんやりとしているし、どれもなんだかはっきりとはわからないし、結局ちいはなんなんだ??どうやって生きていくといいんだ???というのは、ずっとわからないままだった。
だから、
何かをできないたびに、やりすぎなくらいじぶんを責めて、
それをじぶんではやりすぎとは思わないし、人にやりすぎと言われても全く同意できない。100%じぶんの欠点として重く重く持ち続けていた。
その「何10%も持っているやつ」が、ちいの場合は躁鬱病だったのだとおもう。
何10%も持っているどころかちいの土台そのものだった。

いろんな名前を持つ、人間の要素たちはどれもそれぞれの要素を少しずつ共有していて、全てはグラデーションなのだな、ということも改めて強く感じた。
グラデーションで並んでいる順番や、その種類や数は人によってすっごく違う。もうそれはそれは違う。
だから「人間は本当に宇宙だな。」とちいはよくおもう。

どこかでよく聞く、
『〇〇という要素がじぶんにあるとわかって良かった。すっきりした。安心した。』
という気持ちをちいが持ったのは、躁鬱がはじめてだった。
それも、診断された時に感じたのではない。
『躁鬱大学』を読んではじめて感じることができたのだ。

今までは、
「じぶんの一部の要素を知ったからって、その要素を持っているのはじぶんなのだし、“こういう特徴があるからこれは苦手”とか“これはじぶんにはできない”とかっていうのは結局甘えで、言い訳でしょ。」
という感じでじぶんを責めていたし、他の人にもおもっていたことがあった気がする。普段は人にそうおもうことは絶対にないのだけど、特に躁状態の時に。
「だってそれも含めてじぶんでしょ?」
って。
でも、楽になってしまった。
じぶんが、躁鬱人であったと知って、はじめて、
楽になってしまった。から、
それまでのちいはその感覚を本当の意味ではずっとわかっていなかったのだな、とおもって、これまで一度でもそんなふうにおもってしまった人に対して、心の中でごめんなさいをした。
同時に、「これをじぶんで体感した人以外が理解するのは、とても難しいことだろうな、」ともおもった。



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躁鬱人の一般的な特徴や症状なんかはどこかで調べてもらうとして、
いままで躁鬱人であるちいがどんな感じで生きてきたのかというと。

躁と鬱をくりかえして生きているという自覚がなかったから、
「何かをきっかけにネガティブになっている、、!」
なんて思ったことなくて、
“ひたっすらに気分屋で、とにかく周りの人に迷惑をかけまくる最低なやつ”と、じぶんを定義づけていた。
いま思えば一時的な躁状態だったのだけど、そんなこと知らないから躁状態の時にとにかくタネを蒔きまくっていて、蒔いたタネが芽を出すころには鬱になってたりなんかして、でもそんなことも知らないから今更その芽が出たのが嫌になって、水を一切あげなかったり、場合によっては引っこ抜いてしまったり、そこにタネを蒔いたことを忘れるなんてこともめっちゃくちゃあった。
(なんなら忘れたことも忘れているというか、蒔いたのも忘れたのもじぶんなので、誰も巻き込んでいなければいいのだけど勢いで誰かに連絡していたりするもんだから、その人だけが、「あれー連絡きたから話進めたのにそっから一切連絡ないな。どうしたんだろう??」なんてなっていることもあったようにおもう(かっこ書きで書く長さじゃない))


そして鬱になったことも気づいていないから、水やりをしないで枯らしてしまった芽に気づいて、
「どうしていつも最後までできないんだろう。なんで何もちゃんとできないんだろう。こんなこともできないじぶんに価値なんてあるわけない。邪魔なだけだし、本当にいらないからいない方がいい。絶対にいない方がいい。消えてしまえ。」
とかおもったり、
蒔いたことを忘れたタネから芽が出たという連絡を人からもらって、ようやく思い出して、
「なんであの時みたいに動けないんだろう。またこんなに人に迷惑をかけて、、なんて最低なんだろう。そもそもじぶんに価値があるとおもっていたの?できるとおもっていたの?そんなわけないだろばーか。死んでしまえ。」
とかおもっていた。
正確には、ちいは躁鬱人と自覚してからが短いから、
そんなことをおもっている。が正しい。
本気で、心からじぶんのことがいらない存在だと感じるし、
本当にどう考えても死んだ方がいいじゃん、っておもっている。
鬱の時は!!!
あくまでも、鬱の時は。

躁鬱人の特徴の一つは、「極端すぎる」ということみたいで、
でもそんなこと知らないから、
じぶんが与えたじぶんの価値が、そのまま本当のじぶんの価値だとおもっているし、それが間違っているなんてふうには思えない。
嘘でもじぶんのことなんて褒められないし、そんな言葉を口にするだけで罪だとおもっているような節もある。


反対に、躁状態の時には絶対になんでもできる気がするし、できないわけないじゃん!!!!ともおもっている。
頭がガンガンに働いて、なにとも説明できない勘が冴え渡り、鬱状態の時には絶対に思いつかないような果てしない目標をばーーーんと見つけて、そこにいくためにいますぐにできることは何かを一瞬で思いつき、次の瞬間にはそれをもう実行しているような恐ろしいスピード感がある。
そしてそのタネを蒔いたことは正しいと信じて一切疑わない。
一瞬でその場でできることなんて、たいてい誰かに連絡をするか、何かを買うか、何かの予定を確約させるか、何かに応募するか、なんてところだから、
大体は後々人に迷惑をかけることになる。


ちい自身結構な頻度で、
「ちいは“行動力”があってすごいよね!!!」
と言ってもらえることがあるけれど、
それが躁鬱人の躁状態の場合となれば話は別である。
うっかり、
「確かに、、あれはすごい行動力だったな、、!」
なんてじぶんでもおもってしまった日には、
その行動力がない鬱状態のじぶんを責めに責める原因にもなるし、1ミリでもじぶんを褒めたことをめちゃくちゃに言われることになる。



こんなふうに書いていくと、書いていてじぶんでも「一体この人はどこでどう生きていくのかな??」とおもう。
もう毎日おもっていた。
なんだか大変そう、ということはなんとなく伝わっただろうか、

ではどうやって生きていくといいのか。
それがこの『躁鬱大学』にはなんと書いてあるのである。!!!
正確には、カンダバシ氏が躁鬱人のことをあまりにも深く、それはそれはもう本人たちよりもずっとよくわかってくれているから、
それに導かれて躁鬱人は生きていけるのだ。
カンダバシさん。本当にありがとう。
坂口さんによるとカンダバシ氏はどうやら非躁鬱人みたいなのだけれど、どうやって躁鬱人の生態を知ったのか本当に教えてほしい、、、
もう本当にすごいし感謝しかない。
なんでわかったんだろう、


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躁鬱人の生き方を非躁鬱人の方達にここで話しても、「なんて自分勝手なんだ」という感じの生き方でもあるし、
なにより躁鬱人にしか当てはまらなさすぎて共感もなにも生まれないと思うので、ここには書かないけれど、
もしも近くに躁鬱人で生きるのが大変に苦しそうな人がいたら、絶対にこの本を紹介してほしい。

もし近くにいるのなら、
躁鬱人の近くにいる人はその存在が近ければ近いほどきっと大変な思いをしているだろうし、理解しようとどれだけ考えてもわからなすぎてとてもとても疲れているのではないかな、とおもう。
ちいの近くにいる人たちも、近ければ近い人であるほどそうだとおもうから、きっとあなたもそうなのではないかなとおもう。
躁鬱人本人には、この本を読んでもらって自分が躁鬱人であることを実感して理解して、どう生きるのが自分や周りの人たちにとっていいのかを知ってほしいし、
その近くの人たちにはこの本を読んで、
謎に包まれた躁鬱人がどんな思考回路を持っていて、どんな感情の流れで生きているのか、知ってほしい。
そうしたいとおもう相手であるなら、絶対に。

もちろん!
『躁鬱大学』に書いてあることが全てではなくて、
読んでいて99%くらいはじぶんの本かとおもうくらい共感するのだけど、「ここは違うなあ」というところもあった。(特に性欲の話とか)
だからもちろんコミュニケーションが必須で、躁鬱人ではなく「その人」と話すことが絶対に一番大事だとおもう。そんなのいつでもそうだけど。
ただ、その時
2人の間に『躁鬱大学』があったら、ものすごく理解の助けになるし、躁鬱人にとっても、自分を知ることがそのまま相手を知ることにつながっていくのだとおもう。



『躁鬱大学』を読んでから今日までの間に、
なんとなくちいの中では「躁鬱人である」ということは特に特別なことでもないし(その数自体は少ないのだけれど、一つの体質として捉えられたことで何か特殊なものという印象では無くなった)、話せる人には話してみようかなとかおもって、何人かに話してみた。
すると100発100中で驚いていた。
そしてなんだか少し気まずそうな人も多かった。
気持ち、すごくわかる。
ちいも『躁鬱大学』を読むまでは、じぶんが診断を受けた時も、なんだか気まずい気持ちになった。

ちいの場合、特に近い存在の人(パートナーや家族、シェアハウスのシェアメイト)以外は、ちいの躁と鬱の波に気づいていない人が多いのだとおもう。
ちい自身、それを隠すことを何よりも意識して生きてきたように感じる。
どちらかというと昔から、ちいに対する周りの人からの印象は、「明るい、元気、あんまなにも考えてない、行動力がすごい」という躁状態のイメージが強いとおもう。
じぶんのことを、二重人格なのかな?とおもったこともあるし、ちいの中では常に「なんでまだ生きているんだろう」「なんではやく死なないんだろう」とかって強くじぶんを責めて生きてきたので(責めている意識はなかったけど)、そのくらい波の一番高いところと低いところでは大きく差があって、
その差がひどすぎて体調が悪い日も今まで多かったとおもう。

じぶんでもそんな感じなのだから、近くにいる人たちは、本当に大変だったとおもう。
外では必死で波を隠しているから、余計に波はどんどん大きくなっていって、そのとてつもなく大きくなった波が突然自分に当たってくるのだから、
息ができなかったとおもう。
毎回びっくりしただろうし、納得できないだろうし、
もうほんっとに嫌だとおもうことも少なくなかったとおもう。
それでも理解しようとして、本人に質問しても
本人も「わからない」とか言うし。
もうどういうことやねん、どうしたらいいの?ってなったとおもう。


今まで波を隠して生きてきたから、躁鬱人であることを人に話すのは、やっぱり勇気がいるけれど、
ちいの周りにいる大切な人たちにとって絶対にそっちの方がいいから、そして今はまだわからないけれど、ちい自身にとってもこれからはそれをちゃんと知ってもらった上で生きていくことがいいんだとおもうから、ここにも書いた。
だってちいが波を隠している限りは、周りの人はその周りの人に相談するのも難しいし、なにも悪くないのにちいのことを自分が話すのはなんだか悪いようにおもえてしまうかもしれない。
そんなのは絶対に良くないし、ちいも嫌だ。


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ちいは躁鬱人です。
人間は宇宙だから、「その人」というものを知るのには思っているよりも、想像しているよりも、時間も労力も精神力も必要だとおもう。
だから当たり前なんだけど人は見かけによらないし、あなたが知っている「その人」は、どんなに知っていると思っていても絶対にごくごく一部で、
それこそ宇宙の中の小さな小さな星を一つ見つけたようなもので。
絶対に全部をわかりきるなんてことはないし、星を何個か見つけただけで「私はこの人のことを全部知っていて、わからないことなんてない」なんていうのは、どう見ても無理がある。
宇宙は、宇宙自身でも知らないことが死ぬほどあって、
だって宇宙の果てまで続いているもんだからそりゃあそれを知るのにも、時間と、労力と、そして精神力がめちゃめちゃいる。

だけど、
それを知ろうとすることには絶対に意味があるし、
「どうせ全部わからないんだから知ったって無駄じゃん」
なんてことは絶対にない。
だって宇宙のなかに無数に浮いている、星を見つけられるなんて
すっごいことだ。
すっごく素敵なことだ。
だけどそれは宇宙の一部であること、
全体はもうそれはそれは本人にもわからないくらい無限に広がっているということは、絶対に忘れてはいけない。
じぶんが知らない星が死ぬほどあって、誰かはそれを見つけられているかもしれなくて。

すごく知っていると思っていた相手の、新しい星を誰かから教えてもらうと、「あれ?」となったり、ちょっと悔しく思ったりすることもあるかもしれない。
でもそれは何か、知らなかったじぶんが悪いわけでも相手が秘密にしていたわけでもなくて、ただ「新しい星を見つけた」だけだから、
違う視点に立ったら今まで見えなかった星が見えただけで、教えてもらった星はそのまま自分の知っているその人の「星図鑑」に載せることができる。
それは自分に対しても同じで、人に見つけてもらった星は自分では見つけるのがすごく難しかったり、もしかしたら誰かに聞かなければ絶対に見つけられなかった星かもしれない。(背中についてる星とかね)
だから自分のことを誰かに教えてもらうのはすごく、いい。
自分という宇宙に、誰かはどんな星を見つけているのか、
一人で探すよりもずっとずっとたくさん見つけられるだろうから。

宇宙を知るのには、たくさんの時間と労力と精神力がいるから、
全部の宇宙を全力で知ろうとすると自分が持たない。
だから、自分を使って知りたいとおもう相手の大切な星を、ひとつずつ見つけられたらいいとおもう。


どうして急に宇宙の話??とおもう人もいるかもしれない。
ちい自身こんなに宇宙宇宙星星って書くことになるとはおもわず書き始めたらたくさん宇宙の話をしてしまった。


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知っているとおもっても、実はその人の一部であるということ。
ちいが躁鬱人であるということはまだ全然知られていないから、その星をみんなに見つけてもらうのには勇気がいるけれど、そうだとしても。
ちいの宇宙の中では一段と輝いてしまっているし、それをみんなが見つけられなかったのはちいがそれをお腹のところで隠してしまって見せないようにしてきたからだし、大きな星でずっとそばにいる星だからもう隠すのはやめにすることにした。
きっと見つけてもらったほうがちいもちいの周りの人も楽になるとおもうから。

そしてみんな知っている通り、星には引力があるから、
この星に引き寄せられて、知りたかったことを知れたり、安心したり、そうやって誰かのためになる可能性があるなあとおもうからちいはじぶんの星を隠すことが少なくなってきたようにおもう。
今までのちいは星を隠しまくって生きてきたし、見つけられたくないともおもっていたし、そうすることでしかじぶんを守れなかったけれど、
大切な人たちが増えて、たくさんの人と出逢って、たくさんの宇宙を知った。
じぶんの星もたくさん見つけることができたし、じぶんの宇宙もすこしずつ明るくなってきた。

だから、だれかの見つけられていない星を見つけられたらいいなあとおもうし、その周りの人たち、っていうことは、この世界のみんなの宇宙がどんどん明るくなって、地球がもっともっと明るくなったらいいなあとおもう。
そうしたら地球のいる宇宙も少しずつ明るくなっていって、またたくさんの星を見つけられるとおもう。



ちいは躁鬱人だし、
パートナーは女の子だし、
じぶんのことを知られるのは怖いとおもっているし、
家族と仲が良くない期間が長かったし、
稼ぐということに興味がなくてお金に困ることも多かったし、
じぶんのことを「嫌いだ」とおもう時間の方が
長いし、
星になりたい、とおもっている。

なるべく表面的じゃないちいの星たちを並べてみたけれど、やっぱり知らない人の方が多いとおもう。
じぶんでここに書くのはまだむずかしいものが多くて、書けていないけど、人から教えてもらった星はじぶんのとはおもえないくらいきらきらしていて、魅力的なものが多い。
ちょっと恥ずかしくなるくらいだ。
だけどそういう星がじぶんにも、ある可能性があるのかも、というくらいの距離では受け止められるようになってきた。(まだまだ遠いな)


たくさん書き直して、書き足して、
本を読んでから少し時間が経ってしまったけれど、この記事が書けてよかった。
もうすぐ一万字に達しようとしている。
読んでくれた人、ありがとうございます。
長かっただろうなあ。
話が飛び飛びで読みづらかっただろうからごめんなさい。
でもありがとうございます。
次に会ったとき、ぜひあなたの星を見つけさせてください。





たくさんの人が、じぶんの星をたくさん見つけられますように。
みんなの宇宙が、少しずつでもずっと、明るくなっていきますように。
そして世界がもっともっと明るくなりますように。

そのためにできること、
ちいは人生をかけてやっていきたい。
そのためにじぶんの人生を使いたい。

だからもっともっと頑張ります。
いつもありがとうございます。
これからもどうか、どうぞよろしくお願いします。




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