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Bayerische Staatsoper 14.03.23 オペラの記録:バイエルン州立オペラ、ペンデレツキ作曲《ルダンの悪魔》(3月14日、ナツィオナールテアター)

3月14日、ミュンヘンのバイエルン州立オペラの《ルダンの悪魔》を観ました。

オペラ《ルダンの悪魔》を知らない人が多いと思いますので、少し説明します。

作曲家クシシュトフ・ペンデレツキはポーランド出身の作曲家です。1933年生まれ、2020年3月29日に死去しました。20代終わりからポーランド、そしてインターナショナルに名前が知られるようになりました。

ペンデレツキは生涯に4つのオペラ作品を作曲しています。
《ルダンの悪魔》はペンデレツキ最初のオペラ作品です(1968ー1969)。
他に《失楽園》(1976ー1978)、《黒い仮面》(1984ー1986)、《ユビュ王》(1990ー1991)です。

まず、1964年、ペンデレツキは劇作《悪魔》を読み、その時点でオペラ化を考えていたようです。
この作品はジョン・ホワイティングがピーター・ホールの委嘱を受けて書き、ロイヤル・シェークスピア・カンパニーが世界初演しました。

《悪魔》の元になったのはオルダス・ハクスリーの同名小説です。ハクスリーは17世紀にフランスのルダンで実際に起きた、史上最も有名な悪魔憑依事件《ルダンの悪魔》を書きました。

『ルダンの悪魔憑依事件』はポーランドではイヴァシュキェヴィチが小説《尼僧ヨアンナ》を書き、さらにそれがカバレロヴィチ監督で映画化されました。
また、ケン・ラッセルが《肉体の悪魔》として映画化しています。

1967年、ハンブルク・オペラがペンデレツキにオペラ作品の作曲を委嘱し、ペンデレツキは《ルダンの悪魔》作曲に着手しました。
テキストも作曲家ペンデレツキが手がけました。

ただ、ペンデレツキの遅筆のために劇場は大変苦労したそうです。リハーサルが始まってもスコアは完成しておらず、世界初演の数日前でも最後のコーラスの楽譜は完成していなかったそうです。

ハンブルクでの世界初演は1969年6月20日でしたが、これは成功とは言えませんでした。
ところがその2日後のシュトゥットガルト・オペラでのプレミエは大成功、これはギュンター・レンネルトの演出が素晴らしかったためとされています。


さて、史実を簡単に記します。オペラのストーリーもこれに添っています。

フランス、パリの南西にルダンという街があります。
1630年代、時はルイ13世、リシュリュー枢機卿・宰相の時代でした。
ここにグランディエという司祭がいました。彼はイケメンで品もよく女性に大人気でした。グランディエも女性と関係を持ち、自由を謳歌していました。
街の有力者の娘を妊娠させながら、他の女性に求婚したという話もあります。

また、グランディエ司祭はリシュリュー枢機卿を批判する文書も発表していました。これが命取りになります。

1634年、ウルスラ修道女会(貴族の子女が中心)の修道長ジャンヌはグランディエに聴罪司祭として来てもらうように頼んだのですが、グランディエは断ります。
これを恨んだジャンヌ、そしてキリスト教会内でグランディエをよく思わない宗教者たちが、グランディエが修道女たちに「黒魔術」を執り行っていると訴え、審判にかけます。結局、黒魔術の証拠はない、としてグランディエは教会内では無罪になりました。

ところが、アンチ・グランディエの宗教者たちは諦めません。さらにリシュリュー枢機卿も動き、結局、グランディエは死罪を宣告され、ありとあらゆる拷問を受け、生きたまま火炙りの刑に処されます。


ここでルダンの悪魔憑依事件が起きた時代について少し触れます。

当時のヨーロッパは旧教と新教が激しく対立していました。
ドイツで起きた三十年戦争(1618年ー1648年)ではドイツの人口の20%が戦争の犠牲者となり、国土は荒廃、その後の発展を大きく妨げたとされています。
これにはフランスの覇権主義も大きく影響していたと言われています。
そのフランスではルイ13世がリシュリュー枢機卿を宰相に任命し、絶対王政を固めていきました。

グランディエはその時代の犠牲者とみられ、後にヴォルテールにより擁護され、19世紀には大デュマも扱っています。

さて、当時の修道院は、貴族の子女だけれど、十分な持参金がないため結婚できない女性たち、そして夫を亡くした女性が行くところでした。ジャンヌも貴族の出身ですが、せむしだったために結婚できず、修道院に入れられました。金と男の犠牲になった女性たちが集まっていたわけです。
修道院での生活条件はひどく、耐え難いものだったようです。ウルスラ会修道院の中ではこういった不満が積もり積もっていたようです。
性的欲求のいきどころも問題でした。グランディエがかけたとされる「黒魔術」というのも、性的倒錯でした。グランディエに見向きもされないジャンヌはだんだん性的妄想に襲われるようになります(ジャンヌはグランディエと会ったことがないとされています)。
たとえば、史実では、ジャンヌは、自分がグランディエに魔術をかけられたと訴え、悪魔祓いの儀式として浣腸されたそうですが、今回のオペラでは長いホースが巻かれた消火栓の先を下半身に突っ込まれるという演出でした。

裁判は公開で行われ、黒魔術をかけられたとされる修道女たちの性的狂乱・錯乱ぶりは見せ物となっていたそうです。
これは1日2回行われ、他から多くの観光客が小さい町ルダンに集まったそうです。経済的効果も大きかったと思われます。
この『見せもの』はグランディエの処刑後3年も続き、1637年にリシュリューによってストップされました。グランディエが原因ならば、死後行われるわけがないのですから、裁判がいかにイカサマだったかわかるでしょう。
そしてこの頃にはルイ13世・リシュリュー体制は不動のものになっていたようです。


さて、ペンデレツキはこの事件を寛容・不寛容の問題としてオペラ化したようです。

しかし、今回のミュンヘンの新制作では寛容・不寛容の問題というより、ジェンダー問題を中心に据え、今日的な政治的問題として演出していると思いました。

つまり、ジャンヌは悪者の一味、加害者としてより、グランディエと同様、社会の中心にいる男たちの犠牲者として描かれています。

この翻案が正しいかどうかは別として、オペラ作品のシーンとしては非常に訴えかけの強い演出でした。


オーケストラ・ピットです。
ペンデレツキは通常では使用しない楽器を多種使用していますが、この写真では見えません。また楽譜には「Penderecki」と大きく書かれていたのですが、ハレーションのせいで写真では見えません。

プログラム。

以上の写真は©️Kishi

以下はプログラムに挟まれたポスターです。
3段で構成されており、最下段は3枚の写真が並んでいます。

一番上の写真の右側は修道院。上に修道女たち、下にジャンヌが見えます。
周り舞台の上にキューブ状の建物が作られ、修道院、教会内部、セックスシーンに使われる部屋(後に牢屋)と変わります。

中段の写真は(修道女たちが繰り広げる)黒魔術のシーン。

最下段は左から
・王の使者ローバルデモン男爵(左)とグランディエ
・フィリぺ(グランディエの元に懺悔に来て、実はグランディエに愛を告白。後にグランディエの子供を妊娠する)がグランディエの手を引っ張ってベッドに行くのを見るジャンヌ。
・ジャンヌとウルスラ会修道女たち。


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