ラドゥ・ルプーは語らない
わたしが敬愛してやまないピアニスト、ラドゥ・ルプーが、2019年の6月に引退された。学生の頃から図書館に足繁く通い、ルプーの演奏を聴いた。彼の演奏は、わたしの自意識の靄を突き抜ける光の束だった。
ルプーの中年期の風貌はピアニストというよりも、山の奥地で独り暮らしをして、自給自足の生活を送っているような雰囲気。ピアノよりも薪を割るための斧が似合いそうだ。今はきれいな白髪になり「アルプスの少女ハイジ」のおんじのようになっている。
ルプーはインタビューを受けなかったようだ。寡黙なハイジの”おんじ“みたいな貫禄のルプーに「何かを語れるとしたら、音楽を通してだけだ」と言われれば、わたしは何も言えない。音楽で何かを語れないのなら、小屋でヤギの乳搾りでもしようか。乳搾りは不器用なわたしにとって、かなりハードルが高いけれども。
『ラドゥ・ルプーは語らない』(アルテス出版)では、ラドゥ・ルプーを取り巻くさまざまな人々によって、ラドゥ・ルプーについて語られた一冊だ。色とりどりのエピソードによって、ラドゥ・ルプーという類い稀な芸術家の素顔が、浮かび上がっては、消え去る。彼を知るには、彼の演奏を聴くしかないのだ。
ラドゥ・ルプーはピアノを超え、音楽を超え、聴衆を喜びと陶酔で満たす。それは自然の造形だけがもたらす美との偶然の出会いのように、静かに、柔軟に、しかし、圧倒的な存在をもって、私たちに語り続けていくだろう
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