野生動物と遭遇する幸運
アンカレッジから水上飛行機で40分ほど、広大な緑のツンドラやタイガを越え、霧深い入り江に着水。湿地を縦横に流れる細い水の流れは空から見ると大地を走る血管のように見える。大地の隅々まで水を届ける。この水は氷河からきているのだろうか。それともツンドラ、永久凍土の奥底から溶け出してきたのだろうか。少し灰色がかった色に見える。もしかして、この湿地にも熊やカリブーがいるのではないかと目を凝らして見たが、上空から見つけることはできなかった。
この辺りには水上飛行機でしかアクセスできない。だから、アラスカ州の州都であるアンカレッジからそう遠いエリアではないのに、人の気配のしない自然の最深部に入り込んだ気がするのだ。水上飛行機(ジブリ映画「紅の豚」でポルコたちが操縦しているようなやつだ)には初めて乗ったが、あまり高度がないせいか、景色を堪能でき、また離水や着水も想像以上にスムーズ。ジェット機とは異なり、ひどく人間的な、というか、人間の身の丈に合った、アナログな乗り物だと感じて好意を持った。
ここ、リダウトベイ(リダウト湾)ではグリズリーをはじめ、白頭ワシやビーバーなど、いろいろな野生動物を見ることができる。もちろん一番の目当ては熊(グリズリー)、ベア・ウォッチングだ。水上飛行機が着水した入り江にあるロッジから、小型のボートであちこちの入り江をまわり、熊を探す。彼等はこの霧深い森のどこかに住んでいる。
野生動物を見て感動するのは、不確実性、つまり、会えないかもしれないからだ。彼等は彼等の流儀とペースで、好きにその土地に暮らしている。もちろん、彼等は人間に会いたいとも思っていない。彼等に遭遇することはガイドの知識や経験によるものもあるけど、やはり運と巡り合わせなのだ。だから、野生動物に遭遇すると、ギフトを与えられたようで感動するのだ。静かで神秘的な森の奥深く、このどこかに熊たちが生きて、命を繋いで暮らし続けている。そう考えるだけで、心の奥底がふわっと豊かになるのはどうしてだろう。
私が愛してやまない写真家、星野道夫のエッセイの中に何度か、彼の東京の友人がアラスカでの星野のツアーに参加し、ザトウクジラが空中に跳ね上がった姿を見た時の記述がある(以下の引用以外にも別のエッセイで同様のことを何度か書いている)。
その時、彼はこう言った。「仕事は忙しかったけれど、本当にアラスカに来てよかった。なぜかって?東京で忙しい日々を送っているその時、アラスカの海でクジラが飛び上がっているかもしれない。そのことを知れただけでよかったんだ」
僕には彼の気持ちが痛いほどよくわかった。日々の暮らしに追われている時、もうひとつの別の時間が流れている。それを悠久の自然と言っても良いだろう。そのことを知ることができたなら、いや想像でも心の片隅に意識することができたなら、それは生きてゆくうえでひとつの力になるような気がするのだ。
人間にとって、きっとふたつの大切な自然があるのだろう。ひとつは、日々の暮らしの中で関わる身近な自然である。それは道ばたの草花であったり、近くの川の流れであったりする。そしてもうひとつは、日々の暮らしと関わらない遥か遠い自然である。そこに行く必要はない。が、そこに在ると思えるだけで心が豊かになる自然である。それは僕たちに想像力という豊かさを与えてくれるからだと思う。(星野道夫『長い旅の途上』「悠久の自然」Pg.74-75)
この一節は、雄大な自然の中で野生動物に出会って感動したことのある人であれば、心から共感できるのではないだろうか。少なくとも私は、これ以上に自分の感動を言い表してくれる文章は書けない。
入り江一面が濃淡のある霧で覆われ、複数のボートに乗るガイド同士が熊の出現に関する情報をやり取りしている。いくつか熊が現れそうなスポットを巡るがすべて空振り。いよいよ今日はもう無理かもしれない…と皆が気落ちしかけた頃、ついに別のガイドから熊の目撃情報。急いでそのスポット(入り江に面した小さな沢)に向かうと、母熊と二頭の仔熊たちを発見。その時の興奮と感動は、どう伝えたらいいだろうか。ハッと息をのんだまま、息を止めて見つめてしまう。ふと息苦しさに気づき、長い息を吐く。その短い間に野生の神秘を感じるのだ。
熊たちは自分たちのペースで餌である鮭を取ったり、水遊びをしたり、仔熊は水鳥にちょっかいを出したり。ボートから興奮気味に注目している我々人間にはほんの少しの警戒心は持ちつつも、たいした関心はないようだ。彼等は現れた時と同じように、唐突に沢から森の奥に姿を消した。ごく自然に。
また、キーナイ半島のキーナイフィヨルド国立公園で氷河クルージングをした時のこと。灰青の冷たい海のただ中にポツンと一匹浮かんでいるラッコを見た。こんな広い海で、たった一匹で、見ているこちらが心細くなる。しかしラッコは特に寂しそうな風もなく、ただプカプカと浮いていた。
同じくアラスカのデナリ国立公園(マッキンリー山を擁す)の最深部にあるキャンプ・デナリに宿泊し、日中、東京都の約11倍というその広大な公園内を野生動物を探すサファリに出ていた時。池に面した丘に数頭のカリブー(トナカイ)を発見し、バスを降り皆で眺めていた。すると、そのうちの若そうな2頭(角や毛並みや体格の様子でなんとなくわかる)が丘の斜面を連れ立って降りて来て、ごく自然にざぶざぶと池に入り、対岸目指して泳ぎはじめたのだ。後からついてきた方は池に入る際、「本当に行くの?」というように、前を行くカリブーの様子を少し伺うようでもあったが、結局、スイーと泳ぎ、後を追って対岸を目指した。先頭のカリブーは、向こう岸に着くと、よいしょ、と陸にあがり、何事もなかったかのようにタッタッタッと数歩進み、後続のカリブーを待つ。2頭目も岸にあがり、2頭で小走りに走り去るかと思った時、突然、その2頭は立ち止まり、こちらをジッと見つめたのだ。「今、泳いだのちゃんと見てた?」とでも言うように。カリブーたちが人間を意識して、いやもっと言うなら、はるか極東の島国日本から、遠路はるばるやって来た私のために、わざわざこの池を泳いで渡ってくれたのでは?と自意識過剰に考えてしまうような、そんな視線だった。少しの間、そうしてこちらを見た後、2頭は丘の向こうに走り去った。
ガイドをしてくれていたキャンプ・デナリのスタッフもこんな場面に出くわしたのは初めてだと驚いていた。もちろん、私やその他の参加者(10名ほどいた)にとっても初めての光景。そもそも、私にしてみれば「カリブーって泳げたんだ」というところからして驚きだったし(よく考えてみれば、別に泳げない理由もない)、そんな珍しい事象が自分の目の前で起ったということも驚きだった。そんなことが、ごく自然に起る。なぜなら、彼等にとって、それこそが「自然」な日常だからだ。闖入者である人間がいたところで、彼等の日常は妨げられない。人間の都合ではなく、彼等の自然な営みを垣間見られるというのは、何にも増して驚きと感動があり、それを一度目にしてしまうと病み付きになってしまうのだ。
<了>
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