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NVCという物語を生きること

今回は、9月16~19日に参加したNVCリトリートを経て、
今の私が思う、私の生きたい物語のお話。

※リトリートで感じたことの備忘録はこちらに↓


今まで私にとってNVCとは、周りの近しい人や組織が大事にしてるからなんとなく関わっているもの、だった。

相性の良さは感じていたし、日常的に意識もするし、外でワークの場を開いたこともあった。でもそれは、自分の周りにある資源を最大限活用しようとした結果で、積極的にNVCを深めている感覚はほとんどなかった。

その感覚ががらっと変わったのが、今回の合宿。

NVCは、私の思っていた以上に、私の願う世界のど真ん中をいくものだった。

非暴力

まず、非暴力(Nonviolent)という言葉。
今までしっくり来ていなかったけど、改めて考えてみると、ぴったしの表現。

私にとって、目指す世界を具体的に想像することは難しい。
いろんな正しさがある中で、何が妥当なのかがわからないから。
でも、これはなくしたいと心から思っていることはある。

それは、
構造的に何かに加担してしまう状況、
理不尽な搾取、
無自覚に誰かを傷つけること。
それらは全て、「暴力」という言葉に含めることができると気づいた。

暴力って、関係性において起きること。
暴力する側とされる側があること。
個人の心の中でも起きること。

暴力を完全に定義することはできないけれども、
きっと私は、暴力をこの世からできるだけなくしたい。
そして何より自分自身が、非暴力的な生き方をしたい。

まずは、意図とインパクトの差異に目を向けること。

社会変革

社会を変えたい。
もっと平和で、
できるだけ多くの人がしあわせに生きることができて、
地球の歴史の積み重なりの美しさを感じられるような
社会であってほしい。

中野民夫さんの言葉をお借りすると、自動詞の連鎖によるやさしい革命を起こしたい。

自分自身を大切にした先に、周りの人、地域、社会、環境を大切にできる世界であってほしい。

そして、
NVCの物語って多分そんな世界のあり方なんだろうな、
というのを今回のリトリートで感じた。

リトリートに参加していたみんなの様子を見て、
NVCという新しい物語を、信じてみたいなと思った。

合宿であった話の中でひとつ印象に残っているのが、
NVCで重要なのは、
どれだけ「大事にできたか」ではなく、
どれだけ「大事にしようとできたか」であるということ。

全てのニーズを完全に満たすことはなかなか難しい。
けれど、たとえ多くのニーズが満たされないままでも、自分とつながるというニーズが満たされていれば十分なこともあるということ。
この、「大事にしようとする」というのが、私の言葉で言うと「大切にする」だな、と思った。

信じることと葛藤と

リトリートから帰ってきてから、友人と話す中で久々に環境問題とか社会問題の問題側の視点に触れた。
どっちを選択したとて誰かが傷つくような状況に溢れていること。
正解がわからなくても選択しつづけなければ世界は変わらないこと。
このままじゃ何も間に合わないこと。
システムが変わらなければ何も変わらないこと。

様々な環境問題・社会問題を見渡すと、
できるだけ早く、根本的な社会変革が必須のように見えてくる。

でも私は、大きなシステムの変革に直接的に関わりたくない。

大きな変化の裏では、必ず誰かが被害を被る。
大のために小を捨てる選択になることが多い。
どこで誰をどう傷つけることになるのか、影響を予測しきれない。
必ず、何かを取りこぼす。

NVC的な社会変革しか、私は認めたくない。
裏で誰かが傷つくような変革を許容したくない。

「認めたくない」とか「許容したくない」とか拒絶するような言葉はあまり使いたくないけど、そんな声が私の中で大きな力を持っている。

そもそも自分にしろ社会にしろ誰かを「変える」というのはある種の暴力性を孕むわけで、この考え方は強欲で、自分のエゴでしかないじゃんという声も自分の中に存在する。

その実現はとても難しく、果てしない道のりであることもわかっている。
無力感に覆われることもある。

自己変容の波及効果が広がっていくにはどれほどの時間がかかるのだろうとも思うし、時間がかかることで苦しみが続く存在に思いを馳せると胸が痛い。

自分を大切にすることだけでもほんっとうに難しくて大変なのに、他者のことも大切にしようとするんだからなおさら難易度は高い。

例えば具体的な話をすると、私は最近新生活の準備で悩んでいる。
・環境や社会を大切にできるような日用品を買いたい。
・東京生活の終わりに友達と過ごす時間を大切にしたい。
という2つの大切にしたいことがあったときに私は、友達とすごす時間や旅行にお金と時間を使って、日用品はとりあえず安い物を買う。
私は自分の心地よさを優先させることにしているから、それが悪いわけではない。
でもその選択が、とても苦しい。
この世界に大切なものが増える度、このままじゃいけない気がしてくる。

それから、私のやりたいことについても葛藤がある。
旅は、本当に世界をよくするのだろうか?という問い。
思いを及ばすことのできる範囲が広がったなら、主語が増えていったら、愛しく思える対象が増えたなら。世界はもっと素敵になるはずだと私は信じているし、それはもはや私にとってひとつの事実だと捉えている。
でも本当に、旅を広げるのは良いことなのか?
特に観光は、地域への負荷も心配される。
それも結局は信じることしかできない。

問題側の視点に立つと、かなりの力で引っ張られる。
もっと直接的に課題解決に取り組むべきなんじゃないかと。

自分自身とつながることが平和への一番の近道であると信じられなくなる。

でもきっと、
現実的にどうだとか考えても正解はどこにもないし、
結果がどうなるかは誰にもわからない。

だから私は、
自分の信じたい世界を信じて、
自分の生きたい世界を生きるしかない。
その道半ばである自分と世界を許し続けるしかない。
そして願わくば、今の社会のことも愛していきたい。

今私の目には対立しているかのように映っている事柄が、また違って見えてくる日を心待ちにして。

と、ここまで書いてきたけれども。
そんなに頭で考え抜いて肩肘張って生きたいわけではなくて。

世界に対して緊張感を抱きすぎることなく、
ただ頬に当たる風を感じたり、
寒い冬に吐く息の白さをおもしろがったり、
気の赴くままに笑って泣いて、
軽やかに世界を味わっていきたい。

そのゆるやかな世界との関わりの中で、
自分と相互に影響し得る存在から目を逸らさずに、私を取り巻く世界を大切にしながら生きていきたいなと思うのです。

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