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大失恋を振り返るの回
前回のnoteで、(長文という意味で)超大作を書いてしまったため、次回作を書くハードルが私の中で上がってしまい、なんだかずいぶん放置してしまった。
今回は成人後の福岡~沖縄編をゆるく振り返ってみたいと思う。
最初に言っておくが、これは私の備忘録的な大失恋の記録で、とくに話も練り込んでいないし、徒然に書き連ねているので、どうか適当に読んで欲しい。
でも適当でもいいので読んで欲しい(笑)
私は高校をほとんど出席しないまま何とか卒業し、卒業後、親戚のコネで就職した会社を休みまくった上で1ヶ月で退職した。
その後、地元の町立病院で受け付けをしている時に知り合った男性とお付き合いし、19歳の時に、親の反対を押し切って彼氏を追いかけ沖縄に移住した。
彼はとても真面目で、誠実で、当時メジャーリーグのトレーナーになりたいと熱く夢を語る22歳の青年だった。
そうして、うだるような暑さの夏に沖縄生活をスタートさせた19歳のある日、家にあった漫画の「サラリーマン金太郎」をパラパラとめくっていると、金太郎が「会社辞めてきた」と妻に告げるシーンが目に留まった。
金太郎の妻は、
「あら、そうなの。じゃあパート探さなきゃね」
と、至って普段通りに言っていた。
普段から物事を深く考えない私は、
「彼が仕事を辞めてきたら、こうやって受け入れてあげないといけないんだな」
と思った。
しかし、当時の私は飲食店でウエイトレスのアルバイトをしているフリーターで、とてもではないが、彼を支えるほどの給料は手元になかった。
金太郎ルールに基づいて脳内協議した結果、アメリカに移住することを見据えて、
「メジャーリーグという言葉が通じない場所で、彼を支えるだけの経済力と知識と語学力を身に付けなければならない」
という決議に至った。
そして私は、もともと興味があった作業療法士の資格を取ることを決意した。
作業療法士として選手のメンタルケアの知識があれば、少しでも彼の夢をサポートできるかもしれないという気持ちもあった。
そんなこんなで作業療法士の養成校に通い、国家試験も間近に迫り、資格が取れる算段がついた頃、次のミッション
「英語を喋れるようになる」という課題に取り組むことにした。
しかし、高校3年間を昼寝とバイトと読書に費やした私は、中学英語で最初に習うbe動詞が何かも分からなかった。
なので、まずは英検5級(小学生が解くレベル)の本を買って、その日から毎日5時間ほど英語を勉強した。
作業療法士の国家試験直前になっても、昼休みや休憩時間は英語の参考書を解いていた。
そんなこんなで何とか国家試験をパスして無事作業療法士として働き出した私は、遅ればせながら
「作業療法士として普通に働くだけでは、緊急事態に一人で家族を養えない」
ということに気がつく。
そこで、
「よし、大学教授になろう」
と思った私は、大学院進学を決意する。
仕事も普段から全くやる気がなく、定時に帰って飲み会に参加することを日課として、勉強会にも全く参加していなかった私が大学院を受験すると言い出したので、周囲はかなり不思議な顔で私の受験を眺めていた。
その他諸々の課題はあったが、学科試験は英語だけだったので、当時、
"メジャーリーグのトレーナーになりたい彼氏のために怪しい英語を喋れるようになった日本人"
くらいの英語レベルに達していた私は、それから試験の日まで仕事の合間を縫って毎日8時間ほど勉強し、誰も合格するとは思っていなかった大学院の合格通知を手に入れた。
そして無事修了もできた。
それからも、「彼が夢を叶えられるように」という想いのもと、コネクションを作るべく様々なイベントや飲み会に参加し、教授になるべく大学院の博士課程に通い、文字通り猪突猛進していたが、
そんなある日、彼から別れを告げられてしまった。
理由は様々あると思うが、最近になって振り返ると、相手はとっくに「メジャーリーグのトレーナーになりたい」という気持ちも薄れていたし、よく考えたら私と一緒に居た期間の中で一度も無職にならなかったし、私に猛烈に頑張って欲しい訳でもなかったのではないかと思う。
私は、「将来」を見据えて、彼が自由にやりたいことをやれるように私なりに努力していた。
しかし、彼は、私との「今」を大切にしたかったのだと思う。
見ていたポイントが全く違ったのだ。
私なんかより何万倍もしっかりしている彼は、今働いている職場での出来事に耳を傾けて、ただ、「すごいね、頑張ってるんだね」と言って欲しかっただけだった。
彼は金太郎ではなかった。
そんな当たり前のことに、長い時間をかけ、もうどうにも修復できなくなってから気付いてしまった。
そんなこんなで、アメリカの独立記念日に嘉手納基地で上がる花火を見ながら独り身になった私は、ショックのあまり仕事も辞めて、とにかく寝てばかりの生活を2ヶ月ほど送った。
幸い、金太郎プロジェクトのために貯めた備蓄があったため、それを切り崩しながらひたすら寝た。
彼とずっと死ぬまで一緒に居ると思っていたので、最初の20年くらいは、その先の未来に向けて自己研鑽に投資してもいいと思っていた。
投資額は2人で決めるべきだったのに、私は持ちうる全ての資源を
「2人の未来のために突っ込んでくるわ!!」
と、勢いよくつぎ込んでいた。
次に私に大切なパートナーが出来たら、相手の話にきちんと耳を傾けて、2人で話し合いながら将来設計をしていくという、至極当たり前のことをしたいなと思っている。
とはいえ、お別れという結末が来てしまったものの、彼のために走ってきた10年近い歳月の中で得たものは大きかったと思う。
大学院では共に学ぶ仲間を手に入れたし、情報に安易に振り回されない手立てを学んだ。
大学院卒業後に就職した先では、ありがたいことに沖縄の収入の中央値を大きく超える収入を手にできていたし、そのときの蓄えもあり、今、裕福ではないけれど困らない程度の生活が出来ている。
志村けんさんも著書に書かれていた「貧すれば鈍する」というのは本当だと思う。
お金という概念は、心の余裕と直結している。
その点では、私が培ってきたスキルは、タレントになった今でも、私に心の余裕を与えてくれている。
そして、志村けんさんが言う「貧する」は、決して経済的なことだけではないと思う。
学んで、知識的にも以前より豊かになったことで、周囲の仲間達が明らかに変わってきた。
みんな向上心があったり、困難に負けない精神力があったり、人に優しかったりする。
今、その仲間に助けられて毎日を過ごしている。
学ぶということは、人生を豊かにすることだと思う。
良い家や良い車はいずれ劣化してしまうけれど、知識やスキルは劣化しないし、誰にも盗むことが出来ない。
いつまでもキラキラと輝く宝物だ。
そして、いま述べた全てのことは、彼に出会ったから手に入れられたものである。
うちの父親は「沖縄にまで連れて行ったくせに」と憤慨していたが、私は彼にとても感謝している。
最後に、「彼」について少し触れると、彼はとても優秀な医療従事者で、今まで出会った同職種のなかで最上級レベルの実力はあるが、控えめな性格ゆえに自分を大きく見せるということがとても苦手な人だった。
そして、庭に成った梅の実で丁寧に梅酒を漬けたりして、日々の小さな幸せを愉しむことが上手な人だった。
やるべきことをきちんとこなす才能があるし、コツコツと積み上げることが得意で、とても優しいので、職場からの信頼も厚い。
私の幸せをいつも考えてくれていたし、彼なりのやり方で、私をとても大切にしてくれた。
仮に彼がエベレストに登頂したいと言った時に、
「じゃあ私、あなたが楽に下山できるように、ヘリコプターを買うお金を調達してくる!!」
と、突拍子もないアイデアで爆走する私のような女性ではなく、
もっと彼が登りたい形に寄り添って、一言
「頑張ってね、応援してる」
と言ってくれるような人が合っているのではないかと勝手に思っている。
素敵な女性を見つけて欲しい。
というか、きっとすぐに見つかるだろう。
もう居るのかもしれないし。
実力をもっともっと認められて、幸せになって欲しいと心から思っている。
ネットに疎い彼がこの記事を読むことはないと思うが、負け惜しみではなく、私も今、あなたと過ごした歳月で学んだことのおかげで、日々を愉しみながら暮らせています。
ありがとう。
土曜日の夜、そんなことを考えながら、今日も私は、呑気にビールを飲んでいる。
それは島酒や。
とにかく飲んでいる。
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