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Don't call me crazyを聞きながら

いきなりですが、皆さんは「小五、中二、高二のときにハマったジャンルは、一度熱が冷めても再燃しやすい」という話をご存じですか?ちょっと前にTwitterでバズった話題です。
私の場合、小5が野球、中2がミリタリと来ていてなるほど、人生そのもののを捧げたと言っても過言ではないジャンルだなと、感心していました。
けど当たっていたのはあくまで小5と中2のジャンルだけ。そこまで。高2の時好きだったジャンルに戻ることはないなと思っていたからです。つい一か月くらい前までは。
いろんなことが変わりまくっている現状に自分がついていけていないので、ちょっとまとめさせてほしくて書いた。結構長いです。
それでもこのジャンルについて書き残したいのは、私がこのジャンルに、多大なる影響を受けているという自覚があるからです。

約10年前。私は今でいうところのバリバリのJKでした。そんな時代もありました。と、言ってもすべてを満喫しているわけではない、地元でそこそこ強い演劇部の次期エース的な立ち位置でそれなりにオタクくさい高校生活を送っていました。演劇部に入るためにこの高校を選んだのもあって部活も楽しい。先輩は怖かったけど、一緒にいていろんな公演を乗り越えて仲良くなってきた。
そんなとき、私はその部活の同輩と揉め事を起こし、傷害事件一歩手前の騒動を起こしてしまいます。それは高2に上がる直前の春休みでした。おかげに高2のスタートは大失敗。高1の時はなかなかうまくいっていたクラスでの生活もうまく回らず孤立(あんまり気にしてなかったけど)とにかく高校に行って、どこに行っても皆が私を腫物扱いしていた。もしかしたら何か噂が流れていたのかもしれないし、私の雰囲気がそうさせていたのかもしれない。担任じゃない「お前誰や?」っていう先生にも心配される毎日。うんざりしてたし、揉めた相手は事件的には加害者になってしまったので中退してしまっていて、「なんで私だけ高校に通ってんだ?」となってしまった。なんというかなんだこの状況。地獄か?と思った。
そんな私を救ったのは、世界で一番刺激的で面白いのエンターテインメントだった。

プロレスである。
当時の私は高校に行けない日が続いたりしたし、春休みだけど家にいると危ない(相手の子には家がバレていたので)と言われたりして中学校の時の尊敬する友達の家に泊まったりしていたんだけど、その時にその子の家にあった適当に読んだ漫画に高田延彦さんと奥さんの話があったんですよ。(多分なんか代理出産の話やないかな)
その高田さんのキャラデザがな、ものすごく好みだったんです。「こんなに自分の好みの人いるんだな~」と思って調べ始めたのがきっかけ。
その時はハッスルやってた時期で、近くのレンタルビデオ屋にいっぱいハッスル置いてあって、端から端まで見た。そこで小島聡さんとかを知ってますますプロレスにハマっていったのだけども。
特に好きになったのが、TAJIRIさんだった。
ここから私はWWEを好きになった。リーガル師匠やザ・ロック、みんな好きになった、けど一番好きになったのは、ストーンコールドだった。ストーンコールドは私の人生に大いなる影響を与えてくれた。今でも大好きなレスラーだ。WHAT?のTシャツも持ってる(唐突の自慢)
そうこうしてるうちに、姉もそしてその友達もプロレスをハマっていき、2人はまだ高校生の私を車でいろんなところに連れて行ってくれた。楽しかったなぁ。最初は恐縮してたけど、ものすごく楽しかった。そんな中、また好きな団体ができる。NOAHだった。
最初はも~~~~苦手で!なんだろなんか苦手で!絶対見ないなぁと思ってたんだけど、姉やその友達さんがNOAH見まくってるから私も見ない訳にはいかなくなっていってて、渋々見たんだけど。そこでまさに運命と出逢ったのだ(Fate)
三沢さんだった。
プロレス好きな人はもうここまで読めばなんとも言えない気持ちになるだろう。ちなみにこの時2007年とか2008年とかそのくらいです。当時の私はそんな未来は知らずに「いつか三沢さんの試合を生で見られたらいいな~」と思うようになっていました。

そんな高校の皆が知らない超刺激的エンターテインメントを私だけが楽しめている、というオタクのあまりよろしくない優越感を頼りになんとか私は高校を卒業した。
卒業してもプロレス熱は留まることを知らず、社会人になったことで高校の時にいけなかった興行にもちょこちょこ参加できるようになっていたし、何回も興行に来る私に優しくしてくれるスタッフさんやレフェリーさん(私はレフェリーさんというものが大好きなのだ)がいていろんな団体をちょこちょこ見るようになっていた。
肝心のNOAHはタイミングが合わずになかなか行けない日は続くし、その時私は既に就職してたけどそれがとんだブラック企業でまぁ心身ともに疲労していたりしていたのだが、これもなんとか持ちこたえていた。三沢さんがいたからだ。私も頑張ろうと思えたから。

だけど、そんな日々は突然終わった。
わかるだろうから、詳しくは書くまい。2009年の6月13日が来た。ただそれだけだ。私の心は完璧に折れた。折れたなりに私は初めて1人で東京に行きお別れ会に参加し(完璧浮いてたので周りのお兄さん達から結構色々言われた)大阪の追悼興行にも行って思いっくそ紙テープを投げ、もうNOAHは自分では見なくなった。いなくなってしまったからだ。
それでも、プロレス自体を見なくなることはなかった。次に出会ったのは、NOAHとは真逆にあるような団体。メジャー団体ではなく、所謂インディー団体。
大日本プロレス、そうデスマッチだった。

もう熱狂した。大熱狂。選手が試合中に割った蛍光灯の破片を浴び、邪鬼様にチェーンソーで追いかけられるのが楽しくて楽しくて仕方なかった。姉の友達もデスマッチ大好きで見に行ってはどんちゃん騒ぎしていた。そんなことしてる内に当時大好きだったある選手とも仲良くなって、チケット取ってもらったり、メールしたり、その選手がメインの興行があれば実際東京まで行って見に行った。基本、地元から1番近い福岡の興行を見に行ってたから最初東京いきます!っても信じて貰えなくて、行って売店で会ったときに「本当に来たの?(絶句)」となったのは良い思い出だ。その選手だけではなくて、大日自体が大好きだった。大日だけじゃなく、とにかくデスマッチが好きだったので昔の映像とかも見まくった。ミスターデンジャーこと松永さんがお気に入りで本も読んだりした。
大日見る為に天下三分の計とかも行ってたし姉も好きだったので、DDTもすぐ好きになった。元々演劇やったりしてたしなんせWWEが好きだったのだから当たり前だ。DDTで1番好きになったのは大社長こと高木三四郎さんだった。完璧だった。プロレスのスタイル、顔、体型、声、何よりそのやっていること全て、全部ドンピシャだった。未だに大好きですシットダウンひまわりボム。ウェポンランブルで飛び出る常識外れのウェポン達も、たまに????が頭に乱舞するような狂気の試合(褒めてる)のときも物凄いエンターテインメント性を発して輝いていたからだ。私にとってのカリスマ。
ちなみにこの方と1度だけ写真を撮れる機会があって、もう喜び勇んで撮った写真の自分が激ブスで、切腹しようかと思う程のショックを受けて眼鏡をやめてコンタクトにして、かつお化粧を覚えた私なのだった。

けどそんな楽しかった時期も簡単に終わりを告げる。原因は人間関係だった。詳しくは書きたくないので書かない(大日の選手は関係ないよ)今思えば私が子どもだったのだ。それでも、私はもうプロレス見ないと決めた。こんなの見ないと。たった3年くらいだったけど、プロレスに熱狂していた時期は私にとってもとても濃密で、そして本人が思っている以上に、私の人生に深くめり込んでいたのに私はそれを見ないふりをして、プロレスを見るのを止めた。

時が来たのはつい最近、たしか今年に入ってからだったと思う(時は来たって言いたかった、三銃士かっこよくて好きなので)
姉が再度プロレスを見だしたのだ。姉の友達も。正直、最初これはまずいと思った。言い方は悪いが巻き込まれると思った。けど2人の話を聞いていると、まぁ自分は推しとか作らず2人の話を聞いておこう、2人といるのはとても楽しいから。と思って話を聞いていた。それでもなんとなーく懐かしくなってWWEのDVD買ったりストーンコールドの主演映画を見たりして過ごしていのだ。やっぱりストーンコールドかっこいいね!

そんな私も姉と電話をする度にちょっとずつ現代のプロレスの知識をつけていくことになる。仲良かった選手は既に大日にいないこと、他にも色んな選手がいなくなったり、戦うリングを変えたりしていたこと。変わらない選手もいること。NOAHとDDTが同じ運営会社になりその社長が大社長になったこと(プロレス界の豊臣秀吉だと本気で思った)そして新しく知った選手たち……
そんな新しく知った選手たちの中で一際気になったのは、DDT所属のクリス・ブルックス選手だった。ルックスの良さは当たり前だが、プロレスのそのテクニックの凄まじさに引き込まれた。ちょうどドリュー・パーカー選手とのシングルの直前だったのでがっつり試合を見て、すげー面白いな!!!っと大興奮して、姉から教えられていたとおりすぐポートレートを購入した。その後にあったリモートサイン会にも参加した。すごいね、あれ。びっくりした。勿論、大社長も好きなままだったから、DDT応援するのアリだな!と思ったのだ。そして私はこのまま緩やかに、緩やかにクリスくんを応援するのだと思っていた。思っていたのが。
9/27、クリスくんどドリューくんのタッグベルト戦があるので勿論配信を見てたのだけどもそこで一気に話は動いた。

青木真也選手が、大社長をEXTREME級のベルトの挑戦者に指名したのだ。
その後のコメントで、私はショックを受けた。

突然振られたからビックリしましたけど、正直、6月に復帰して、しばらく体調のこともあったし、経営のこともあったんで、あまり表に立つつもりはなかったけど。今日も第1試合から第3試合までずっと解説やってたし、最近は解説も多くなってて。でも、その状況にファンのみんなも当たり前だと思っていて、その状況に自分の中で「これでいいのかな」みたいに思ってたんですけど、青木真也選手から声をかけていただいて非常に嬉しいです。本当に感謝してます。プロレスラーって基本“かまってちゃん”な生き物なので、構ってくれないと「これでいいのかな」と思ってしまう部分もあるし。そういう意味で青木真也選手に構ってもらえて、非常にありがたいです。だけど、やるからにはそのベルトはもともと俺が作ったベルトだし、その歴史に則って、このベルトを私が獲って再び輝かせてみせますよ。
引用:DDT 公式HP https://www.ddtpro.com/results/14685

まず言うと、私はこの時この方が手術したとか休んでたとか全然知りませんでした(好きと言う割に最低である)だからまずそこでびっくり。そして、この方が試合に出ないことが「当たり前」になっているということにショックを受ける。当たり前だぁ?んなわけないでしょ!?少なくとも私はそう思ってなかったし。普通にぽやぽやとなんで試合出てないんだろ~と思ってた、そんな自分にも腹が立ったけど。いや、そうじゃない。困るのだ。この人にいなくなられては。普通にいるものだと思ってたんだ私は。

自分でも驚いたのですが、私はこれで泣いてしまったのだ。なんという気持ちだろう。悔しいとか、腹立つとか、寂しいとか、大袈裟だけど、いなくなられたら困る、とか。そして思い出したのだ、プロレスが人の感情をこれだけ動かすことを。
その時に、私はこの人を社長としては勿論選手として応援しようと決めて、今に至る。

話長い!!!
我ながら話長いよ!!

この後DDT名物(?)ドラマティックドーリムービーを大社長にお願いしその出来の良さに驚きのあまりえずいたり泣いたり、前の試合を見たりしてめっちゃ怒ってみたり元気になったり、姉に勧められたまっするで平田くんが好きになったりと大忙しな日々を送っているのだけど。
単純に思うのは、やっぱり私はプロレスがすきだったんだなぁということ。好きな物はどんなに封じ込めても好きなんだ。つい最近まで動かなくなっていた感情がよく動くよく動く。そして、私は生きてるんだなぁと感じるようになった。今まで背景と一緒になっていた私はポコっと背景から出てくることができたのだ(これは先述のムービーのお陰でもあるんだけど内緒です)
やっぱり冒頭の小5中2高2の話は本当のようです。今度は逃げないように。

(今日頼んでいたTシャツが届いた。10年前、何度試合にいっても買えなかったTシャツ。早くこれを着て試合を見に行きたい。ちなみに大社長のらサイン色紙がついてきた。部屋に飾らなきゃ)

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