愛想笑いをやめたい。

今日はなんとなくもやっとしていたことを綴ります。


「自分がどうしても好きになれない人には、何か理由がある。
その人が自分の中の何らかの嫌な思い出、トラウマ、嫌いなことと結びつくからではないか」という意見を聞いた。

私には二人で話しているとなんとなく間が持たない人がいて、
その人と話すときは心なしか緊張する。自分の調子がいい時は気にならないのだけれど、そうでないときが多々ある。

その理由を考えたときに、あることが思い当たった。

私は話すときによく愛想笑いをする。
相手が面白くないことを言っても、笑わないとその場が気まずくなるから、無理に笑う。そんなことを20年も続けていたら、話す人に合わせて自分の態度を決める、というのが自分の当たり前になった。

私の愛想笑いに他人が気が付いているのかはわからないけれど、愛想笑いが話し相手との絶妙に耐えられない間を埋めてくれる。そう信じていた。

話を元に戻して、私がなんとなく苦手だと思っている人のことを考えてみた。なぜ話しているときに緊張してしまうのだろうか。その人とは、アウトドアな趣味が一緒で、これまで何度も一緒に旅行に行っている。なのに、どうしても苦手意識が消えない。

そして気が付いた。

あ、あの人話すときに愛想笑いしてないな、と。

自分が笑顔で接すると、大抵の場合聞く側もこちらに合わせて笑顔になってくれる。ただ、その人に限っては、自分の気持ちに嘘がないから、面白くないときは笑わない、自分が面白いと感じたことだけ笑う、というスタンスを貫いていた。

こう書くと当たり前の行動のように感じるけれど、自然と相手に合わせて表情やしぐさを変えることは少なからず誰にでもあることだと思う。そして私は、自らが良かれと思ってした行動から思い通りの返答が得られなかったときにつらいと感じることが分かった。

これはその友達の問題ではなく自分の傾向としてある特徴だと言える。思い返せば、高校の時もこのような友達と最後まで完全には打ち解けられなかった。ここで、自分が何となく苦手だと感じる人には、自分のことを知る手掛かりがあるという冒頭の意見について吟味してみる。単に「なんとなく苦手」というだけで片付けてしまうにはもったいないという意見だ。

だから、なぜ思い通りの返答が得られないときにつらいと思うのかについて考えてみた。

私は、すべての行動の根底に他人から嫌われたくないという気持ちがある。だから、初対面の人には特に愛想を振りまいて接するし、他人の意見にはあらかた同調するし、誘われた約束も明確な予定がない限り断れない。ただ、だんだんとそれが通用するのはその人と会った最初のうちだけだと分かってきた。

自分の意見は押し殺して他人に同調を続けて、自分以外の人のご機嫌取りをして、そうして自分の価値判断基準が他人に委ねられるようになっていった。こう返事したらつまらないと思われないかな、相手に反論されないかな、とか考えながら話すせいで、意見を求められても「YES」しか出てこなくなった。

他人に嫌われたくないというけれど、これは他人の意見を尊重したいとかそういうわけではなくて、究極に自分を守るための手段である。意見に反論すればもちろんそれに対して言い返されることが多くなるし、場合によっては非難される。そこで自分が傷つきたくないからこんな防衛手段に出ていたのだ。

私が苦手なその人は、私からは、他人の意見なんてお構いなしに反論して自分がやりたいことをして生きる、そんな人に見えて、自分にないそんな部分が羨ましかった。無意識のうちにその感情が苦手意識へと変換されていた。その人の海外経験が、日本人には稀な周りに流されない性格を作り出しているのかもしれなくて、誰にもこびない雰囲気に勝手にジェラシーを感じていた。

こうやって、原因の一部が見えたところですぐさま苦手意識がなくなるわけではないけれど、少なくとも、なんとなくで考えていた部分が少し明確になって自分の中で腑に落ちた。今まで自分の知らず知らずの防衛措置に気が付かないふりをしていた。けどきっと今からは目をそらして逃げるべきではない。庄もない意地を張ったり、自分のプライドを守るために見て見ぬふりをしているとどこかで失敗する。

誰かに誘われたときに、せっかく誘ってもらったのに断るのは申し訳ないなという理由で受けるのはやめる。迷う場合はいったん持ち帰って冷静に判断する。そうしたら行く直前で嫌になってドタキャンするのもなくなるかも。必要以上の愛想笑いも抑えて相手との絶妙な間を自分から強制的に終わらせない。どっちがいい?と聞かれたときに、本当に自分が好きな方を選ぶ。誰々が行くからという理由で誘いに乗るかどうか考えない。

自分の価値判断基準を自分で持てるように日ごろから訓練して、その都度自分で考えてその時にできる最善の選択を根拠をもって行う。そうすれば、後悔がなく生きられそう。自分が居心地がいいと感じる間は自分の成長が止まっているもので、そこから抜け出すには多少の痛みを伴うこともある。

人はなかなか変われないけれど、何度も反復して、繰り返して思い込ませるしかないからやるだけ無駄ではない、と信じたい。


そんなことを考えた今日でした。最後まで読んでくださりありがとうございました。


2023年4月10日





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