2024/1/7 ねむりたりない


朝起きたら、と言っても9:30頃で、なんで目覚めたかというと、クロネコヤマトが呼び鈴を鳴らしたからだ。母親が丁寧にぎっしりと詰めた、「冷凍」と「常温」の荷物。まだねむりたりなくて、「冷凍」の方だけ段ボールから食品を取り出し、せっせと冷凍庫に詰めた。頼んでいなかったのに、私の好きな冷凍のチョコレートケーキが三切れ入ってた。実家に帰った時、私は面白半分で「私は長女なのに、一番意味がわからないことをしているよね」みたいなことを言った。弟や妹たちの方が偏差値の高くていい高校や大学、スマートな進路を辿っている、とも。そうしたら、母親がすこし怖い顔をして「ママはそんなこと1ミリも思っていない」と言った。その母親が詰めてくれたケーキ。大人になって多分、私は静かに母親を傷つけていると思う。時計はもう少しで10時を指しそうだったけど、やはりねむりたりなかった。この頃ずっと、ねむりたりない。やらなければいけないことが沢山あるはずなのに、ずっとずっとねむっていたい。起きていると、いろんなことに向き合わなければいけない。ねむることは私にとって逃げ場で、わたしはここ数年、ねむることから逃げられなくなっている。数回なんとなく目覚めるのだけど、今日は天気がいいみたいで、窓から刺してくる光が心地よく眩しい。ねむりながら日光浴をしている。私にはビタミンがとても足りていないので、丁度良い。途中頭がズキズキと痛んだ。脈打つ頭痛で、その度私は眉間に皺を寄せていて、嫌な顔をしていたと思う。その後もねむりつづけ、結局17:30に起きた。のそのそと起き上がり、残りの「常温」の荷物をせっせとストッカーに片付けた。母親が定期的に送ってきてくれる「非常用・体調不良用」のレトルトのお粥やカレールー、ポカリ、ゼリーなどが、テトリスみたく無駄な隙間なく、丁寧に詰め込まれていた。一緒に入っていた、キレートレモンを一瓶開けて飲む。私にはビタミンが足りていない。冷凍庫から冷凍のチョコケーキを出して、IHコンロの天板に置いた。温かいお茶を飲むために、お湯を沸かす。温かいお茶を飲むことを教えてくれた人のことを思い出す。食事の後、決まって、あたたかい玄米茶を淹れてくれる人だった。その玄米茶は、その人の、ていねいな暮らしを物語る大きなひとつの要素で、その玄米茶を飲む時、私はとても満ち足りて、リラックスしていたと思う。よくよく考えると、私の実家では朝食の後、緑茶を飲む習慣があった。母親がカンカンから茶葉を急須にうつし、熱いお湯で、淹れてくれた緑茶。あまり明瞭な記憶がないけれど、私はその時とても満ち足りて、リラックスしていたと思う。私の一人暮らしの家はIHコンロで、やかんが無く、お湯を沸かすのは決まって電気ポットだ。玄米茶の人も、母親も、ガスコンロの上で、やかんでお湯を沸かしてくれた。それだけのことだ。私は、私の淹れたお茶を飲み、半解凍のチョコレートケーキを食べながら、躁鬱病の女性が主人公のドラマを観た。Take Me as I Am, Whoever I Am.(ありのままのわたしを受け入れて)、 観るのは7回目くらいで、主演のアン・ハサウェイが躁の時も、鬱の時も、うつくしい。夜中にミューズリーを食べるシーンが1番好きだ。桃が出てくる話で、コーヒーを飲む場面で終わる話。フルーツが食べたくなったけど、うちにはフルーツがないし、生憎コーヒーも切らしている。まだスーパーは開いているけど、絶対に今日は外に出たくない。7回も観ているから、注意深く観なくても構わない。流し見しながら、チョコレートケーキを食べた。頭がまだ痛い。昨日は、うまく寝付けなかった。最近は頭の中が混沌としていて、一度済んだことを掘り返す悪い自分が、自分に意地悪をしている。嬉しいことだけ覚えておいて、嫌なことは忘れられれば、どんなに楽だろう。記憶は少しくらいなら改ざんしたっていいらしい。その理由は、誰にも迷惑がかからないから。中学生の頃読んでいた漫画に書いてあった。きっと今日も同じような夜を過ごす。なかなか寝つけずに、そして、たくさんねむると思う。頭はまだ痛い。ねむりたりない。「ありのままのわたしを受け入れて」と思う。

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