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ゴミ出しと救急車とおじいさん

目が覚めたら8時過ぎていた。仕事の予定が無いので、ここ1ヶ月は目覚まし時計をかけていない。
窓の外、遠くからカシャーン、カシャーンとガラス瓶がぶつかり合う音が聞こえて来る。そうだ、今日は資源回収日だと飛び起きた。

急いで着替え、プラスチックごみが詰まった袋とガラス瓶、缶、ペットボトルがごちゃごちゃと入ったゴミ箱を持って廊下へ出て、階段で1階へ降りた。マンションの入口はガラス張りで、外から入ってくる光が明るくエントランスを照らしてる。
入口に目をやると、扉の側に人が座っていた。
その人はぐったり体の力が抜け、左手を床に付き体を支え横座りしている。逆光でその姿は影になり、うなだれているので性別も年齢も分からない。その側には、立って外を見ながら電話で話しているおじいさんがいる。何事だろう。

近づいて行くと、床に座っているのは白髪のおばあさんだった。
大丈夫ですか?私はボサボサ頭でゴミを両手に持ち、立ったまま覗き込み横から声をかけた。おばあさんはじっとしている。目は開いていて意識もあり、自力で座っているのでとりあえず緊急事態ではなさそう。ほっとした。
マンションの外に出て電話をしているおじいさんの顔を見ると、今まで2度挨拶したことがある知った顔だった。初めてそのおじいさんと挨拶したのは2年前の秋。
マンションのエントランスでばったり出会った。私は帰宅、おじいさんはお出かけするところ。初めて見る顔だった。
綺麗に整えられた白髪。赤シャツに白い上着、紺のスラックスに艶々の光沢ある革靴。一目見て、かっこいいなあと思った。
どちらからともなく会釈し挨拶。こんばんは。
おじいさんは
「こんばんは、どうもどうも」とニコニコ笑いながら外へ出ていく。私もつられて笑顔になり、マンションの外へ出て行く姿を目で追った。
彼が手に持ったスーパーの袋からは3カートンもありそうなタバコの箱が透けて見えていた。銘柄はピース。鳩のマーク。

「そろそろ救急車が来るから」と、おじいさんが電話で誰かと話している声が聞こえて来た。
外へ出て、電話が一段落したおじいさんに奥様ですか?大丈夫ですか?と聞くと、頷きと共に「大丈夫」という声が返って来た。
ひとまずゴミをすべて出し入口に戻る。おじいさんはまだ電話を耳にあてながら道路に目を向けていた。空になったゴミ箱を置き、私はおばあさんの横にしゃがんだ。

大丈夫ですか、もうすぐ救急車来るみたいですから。そう言いながら軽くおばあさんの背中に手を当てた。5月の暖かな日なのに、おばあさんはうすいピンクの花模様がさりげなく入た毛糸の白いカーディガンを着ている。暑くないのかなとふと横顔に目をやると、深く細かい皺と、少し辛そうな表情が見えた。
痛いところはないですかと聞くと、おばあさんは嫌がる様子もなく小さくないと返事をしたので、そっと軽く背中を撫でた。それから1分も経たず救急車が到着した。
隊員の方が2人でおばあさんの上半身と下半身をもちあげ、ストレッチャーに乗せるところを少し離れて見ていると、おばあさんのお尻の下に小さなハンドタオルが敷いてあった事に気付いた。冷たくないように、おじいさんが敷いだんだろうか。
そのタオルをさっと拾い、おじいさんがこちらを振り向いて近寄って来た。ほんの少し微笑んでいる。
「立てなくなっちゃってね、起こそうとしても重くて起こせなかったの」
大変でしたね、お大事にしてください。そういう私に、
「太っちゃダメだよ」と急に冗談ぽく言うおじいさん。
ちょっと笑った私に
「いやほんと。重くて運べないからね。体は荷物と違って柔らかいから簡単に動かせないね」
と言って軽く会釈し、おばあさんを乗せたストレッチャーの方へしっかりした足取りで歩いて行った。
私はその背中に「おだいじに!」ともう一度声をかけ、全員が救急車に乗り込むところを見届けて部屋へ戻った。

おじいさんは、はじめて会って挨拶した時も2度目も、奥さんが立てなくなって救急車を呼んだ今日も、雰囲気が変わらなかった。
笑顔、しっかりした足取り。ちょっと軽やかな空気。
太っちゃダメだよ、と冗談めかして言うあの余裕。
人は、会った瞬間にその人がどんな人なのか、大体のことが分かってしまう気がする。言葉に出来なくても、実は全身で感じ取っている。
下手したら、目が合った瞬間に、何かを伝え合っているのが人と人なんだとすら思う。
私は、座り込んでしまった自分の奥さんの体を動かそうとした時に、これはだめだ、荷物みたいに簡単には運べないな、と冷静に思ったおじいさんに更に興味が湧いた。
おじいさんは私の顔を覚えただろうか。またマンションのエントランスでばったり会いたい。そして今度は立ち止まってもう少し世間話をしてみたい。

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