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「自分の物語」を「消費」するのか、それとも「生産」するのか、ということ

わたしはいま、日本とイギリスの、ふたつの大学に所属している。イギリスのほうは、客員である。日本の大学のほうのグループのニュースに、編集者箕輪厚介氏の就活インタビューが行われた、という記事があり、かれがプロデュースしたという本を、電車のなかで読みはじめた。前田裕二の『人生の勝算』。

この本でいちばん興味深かったのは、いまという時代は、「他人の物語」ではなく、「自分の物語」を消費する時代だ、というくだり。とくにスター性がずば抜けているというわけでもない、かなりかわいいけれど普通の女の子たちは、歌がイマイチだったり踊りがイマイチだったりと、そこに不足がある。だからこそ、それを自分が応援することで補おうと、ファンは熱狂する、という。

自分がいなくても成立するアイドルやアーティストには、人々は熱狂しない。つまり、うまくないほうがいいというのだ。

現代文化の分析として、きわめて興味深い話である。しかし、そうなると、芸を磨くとか、教養をもとめて勉強するという、文化を発達させてきたモティベーションは、現代日本の文化においては死んでしまったのだろうか、という疑問も湧いてくる。

もちろんそうではない、とすくなくともわたしは考える。

前田さんは素人っぽいアーティストを応援するコミュニティであるSHOWROOMをつくった。そこで自分のお目当のアーティストを応援するというスタンスで、自分の物語をつくる代償行為にしているひとがいる。そういう人たちは、自分がアーティストになる代わりに、他の誰かを応援している。

仕事が終わって、疲れて、ダラダラ(失礼)テレビばかり見ている人がいるとする。その代わりに、自分が応援してあげなければ鳴かず飛ばずのアイドルを応援するという、少し生産的な(?)消費をする人がいるということだ。もちろんそれはそれでいい。

でもここでわたしが思うのは、みんなが「自分の物語」を「消費」する、ということを、もう少しすすめて、みんなが「自分の物語」を「生産」する、という方向に、持っていけないのだろうか、ということだ。いや、もちろんみんなである必要はまったくない。

これからはどんどん、「自分の物語」の時代になるのだろう。そのとき重要なのは、自分が何をしたいのか、自分の軸はなんなのかと、徹底的に考えることである。しかし、経験していないことはそもそも、考えられない。

自分の人生をクリエイティブにつくっていこうとすれば、それ相応のインプットが必要になる。人と話をする、トークを聞きに行く、イベントに顔を出す。それらはそのためにすべて大事なことだ。

しかし、それだけではない。つまり教養である。読書であり、映画であり、芸術であり、語学でも音楽でも演劇でもなんでもいいが、とにかく楽しみながら勉強すること。自分の文化リソースを、積みあげること。

それは「他人の物語」の「消費」ではなく、「自分の物語」を「生産」するためのインプットである。各自が自分の物語を、消費を超えて生産していく、つくっていく時代に必要なことは、リベラル・アーツのリテラシー(理解鑑賞力)を、あげること。文学文化・芸術は、そういう意味で、生きることを考える意味で、この上ない実学である。

文化・芸術・文学などを研究しているわれわれは、そうした脳の栄養、教養の汲めども尽きない源泉を、自分の物語をつくっていこうとする全ての人々の栄養になるようなわかりやすい語り口で、伝えていくことが、必要である。

少なくともわたしは、「自分の物語」を「生産」しようとしている人々に、自分の持っているリソースをシェアし、人生の栄養としてもらうことができるようにすることが、自分の仕事である、とかんがえている。

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